おかしのまじょ


 小さい頃読んだ絵本に、こんな話があったの。

 森で迷った二人のこどもが、森の中で大きなお菓子の家を見つけたの。
 お腹が空いていたこども達は、お菓子の家を食べ始めるのだけど、そこへお菓子の家に住む魔女がやってきてしまって。その様子に魔女は怒って、二人を食べてしまう。そんなお話。

 日焼けしたぼろぼろの紙切れのような髪の毛に、ぎらぎらと光る精気を失った瞳が印象的な魔女。魔女は二人にお菓子を食べさせながら、その歯並びの悪い口をニタリと吊り上げて笑っている。
 そんな挿絵が不気味だったことしか印象に残らないような、よくあるおとぎ話だった。そう遠くない昔だけど、題名も覚えていない小さな絵本。今日までは、膨大な記憶の波にただ揺られていただけのお話。

 けれどシンドリアにきて会ってしまったの、私。ここだけの話よ。ジャーファルさんは魔女よ。
 煤けた銀の髪と黒い瞳は、あの挿絵とそっくり。整ってはいるものの、影の薄い顔立ち。それに見てしまったのよ。お菓子を抱え、子どもに食べさせながら楽しそうに笑っている姿を!
 ああ、なんと恐ろしい! 恐ろしいほどに優しく笑いかける彼は、腹の中でしめしめと笑っているのだ! きっとお菓子で太らせて食べてしまう気なのだわ!

だから私は、彼のお菓子は食べないと決めていた。ちょっぴり、女の子としての意地も混じっていたのはあるけれど。

 今日は天気がいいから木陰で本を読んでいるの。水魔法とその応用に関する本よ。分厚い背表紙がああ、なんと愛おしい!

 木陰の外では、最近預かったらしい食客達が悲鳴をあげて鬼ごっこをしていた。ああ、うるさいなあ。
 きゃっきゃと甲高い声を塞ごうと本に没頭する。ここの書庫は素晴らしいの。私の知らない魔道書がたくさん置いてあった。きっとここでは素晴らしい本に囲まれて過ごせるはずなの。だから私の邪魔をしないでちょうだい。
 そう思いながら私はぺらりとページをめくった。

 どのくらい読みふけっていたのだろう。
 気づけばあの煩わしい声は消えていた。その代わりに、ふと頭上から声がかかった。
 突然聞こえた声に思わず飛び上がってしまった私を笑う声が聞こえた。その声に私はまた驚いてしまう。だって、魔女の声だったんですもの。

「おや、ヤムライハ。そんなところで本を読んでないで。こっちへ来なさい? おいしいお菓子もありますよ」

 どこから持ってきたのか分からない古びた机にお菓子を広げ、片手にティーカップを持って笑っていた。食客達はどこかへ行ってしまったのか、中庭にはいなかった。
 ならこれは、一体誰のために用意したものなのかしら? 答えは明確。私に食べさせる気だわ。

「いいえ、いりません。お腹が空いていないので」
「おや、残念ですね。――でも君、昼食も食べずに本を読みふけっていたでしょう。子どもはお腹いっぱい食べるべきですよ。遠慮せずにどうぞ」

 悪い魔女から逃げるためには、お菓子を食べなければいいんだ。そう思ってはっきり断ったのに、そう言われてしまえば返す言葉もなかった。事実、お腹は空いているわけで。
 こっそり、見るだけ。別に匂いに惹かれたわけじゃないのよ。

 お皿の上に置かれていたのは、赤い苺のコントラストが印象的なパイ。それから、蜂蜜がたっぷりとかけられたホットケーキ、サクサクしているのが遠目でもわかるほど綺麗に焼き上げられたクッキー。
 ああこれ、きっとこの人が作ったのだわ。だってふんわり湯気が立っているんですもの。下に行けば菓子店はいくらでも見つかるけれど、そこで見たのはどれも魔法のような何かで冷やしていたから。

 周りに、私以外の子どもはいない。私と魔女が二人っきり。
 服にこびりついている洋墨が、仕事が忙しいことを主張していた。
 この人が、作りはするけれど、甘いものはあまり好きではないんですよと言っていたのを聞いたことがある。自分が食べないものを、こんな忙しい時期に作るなんて。

「忙しいだろうに……」
「おや、そんな事はありませんよ。ああほら、本を読みながら食べるから溢してますよ」

 ついぽろっとこぼれてしまった言葉を、甘いいちごと一緒に飲み込んだ。あら、食べないとは言っていないのよ。ええ。別に。
 いつの間にか私は椅子に座ってお菓子を食べていた。しょうがないの、おいしそうなお菓子達は焼き上げられたにもかかわらず、放ったらかしにしておいたらゴミの山となってしまうのだから。それはきっともったいないことよ。時間も労力も材料も。だから食べてあげているだけなの。
 それにしてもかなりの量だ。他の子達にも食べさせてあげないのかと問うと

「いえ、君にために焼いたんですよ。……まあ確かに作りすぎちゃいましたねえ」

 こんな具合だ。そういう作戦なのだろうか。
 その手には乗らないと思いつつ、「甘いものは苦手ですし、捨てるのも勿体無いですから」なんて言われて仕舞えば、食べる以外に方法はなかった。

 ああ、やっぱり魔女なんだなあ。だって、こんなにおいしいもの。

 食べる手を止められず、全て食べ終わった頃にやられたと思った。ばかじゃない。私食べられちゃうわよ。だって彼、魔女だから。……多分。

 男に魔女という単語はおかしいかもしれないわ。白い髪に黒い目、お菓子を配り歩く姿はまさしく魔女よ!

 一人で悶々としていると、視界の端でお月様みたいな髪が、緑の布に包まれて揺れる。
 こぽこぽと紅茶を注いだティーカップが机に置かれた。おかわりをどうぞという意味らしいけど、先ほど反省したばかり。
 同じ過ちを繰り返してたまるもんですか。

 そう思ったのに、彼の悲しそうな顔を見て一気に飲み干してしまった。
 ほっとしたような顔は、まるで魔法みたいに私を包んだ。なぜだかどうしてもむず痒くなってしまって、全部魔女のせいにすることにした。

「ジャーファルさんは魔法が使えるんですか?」

「魔法? いいえ、私は魔法使いではないよ。シンドバッド様の眷属だからね。君もわかるだろう? 眷属は魔法が使えないから。けれど、どうしてだい?」
「だってジャーファルさんは美味しいお菓子をたくさん作るから。ついつい食べてしまうのよ。きっと魔法よ」

――ひょっとして魔女ですか?
 そう聞いて私は後悔した。そんなこと聞いてしまったら、私食べられちゃうわ。バカね、私。
 正体がばれてしまった魔女が、口を袖で覆うようにして笑った。

「そうですね。では食べてしまいましょうか。君はとても美味しそうですからね」

 にやり、と意地悪な口元が三日月を描いた。その言葉に私は背筋が凍った。
 食べられてしまうわ! お菓子の魔女に! 
 黒い瞳がやけに大きく見える。気がつくと、彼の顔がすぐ近くにあった。まるで星一つない夜空のような、ずっと見ていると吸い込まれそうで。

 彼から逃げるように椅子から立ち上がろうとしたが、背が高すぎてうまく地面に足がつかない。

「けれど、シャルルカンやマスルールたちも美味しそうだねえ。ねえ、水の魔女さん」

 そんな私の頭に手を乗せた。
 頭を撫でられている、そう気付くのに数秒はかかってしまった。髪をくしゃくしゃと、けれど丁寧に撫でながらにっこりと悪戯を思いついたかのような顔で笑った。

「一緒にお菓子を作って、彼らを食べてしまおうか」

 その時の私は、変な方向に受け取ってしまい、あの子達が食べられちゃえば私は助かるのかななんて考えてしまったり、魔女の仲間になって、二人でしーっなんて顔を見合わせて秘密の約束をしたりもした。
 今思うと我ながら馬鹿だと思うけど。それよりも、なぜ魔女だと思ったのかすら覚えていなかった。きっと、自分に優しくしてくれる人がみんな悪に見えていたのだろう。

――彼のお仕事が少し片付いた頃、私は部屋にお呼ばれした。

 こんこん。
 小さな手で叩く扉が、まるで絵本で読んだクッキーの扉に見えてきた。薄い茶色の扉がゆっくり開くと中から魔女が現れて、しい、とひっそり笑った。

 赤いジャムの塗られたクッキーに、黄金色の林檎が光る林檎パイ。紅茶にお砂糖をひとさじ。銀のスプーンと白いお皿を用意していると、扉が小さく二回なった。

ほのぼのとした話を目指しました。時間軸はシンドリアにきたぐらい。
公式で明確な設定が発表される前に色々やろうってことで、量産しています。



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スワンプマンの箱庭