落ちたのは、いつだったか

 
彼と初めて会ったとき、私はただのお客さんだった。彼は、テスト期間にたまたま入った店で、そこの店員さんだった。そこからなんとなく彼のことが気になって、店に通うようになって。顔を覚えてくれて、話すようになって。そんな頃にバイトを募集しようかと思ってるんですよ、なんて言われて、立候補してみたりして。

(別に、恋なんかじゃない…筈)

私が一人っ子だから分からないけれど、お兄ちゃんというものがいたらこんな感じなのかな。そう、思っているだけだ。テスト前とかになったら休憩時間に勉強を教えてくれるし、まだ慣れていなかった頃は特に気にかけてくれてたりとかしていたから。ただ、それだけだ。

「すみませーん、注文いいですか?」
「あ、はーい!」

仕事中だったんだ、と頭を切り替えて呼ばれた方へと向かう。私と変わらないぐらいの年齢だろうか。男の人が、2人。笑顔を浮かべて注文を取っていると、1人の人がお姉さん大学生?と声をかける。

「え、っと…はい…?」

突然の言葉に、戸惑いながら答える。彼らも同い年ぐらいなのだろう。妙にテンションを上げながら、仕事終わるの何時ごろ?等注文には関係のないことを尋ねてくる。
元々仕事中じゃなくても声をかけられるということが無いのに、今は仕事中。どうしていいか分からずに狼狽えていると、返事をしない私を見て腕を掴んできた。

「いいじゃん、暇でしょ?」
「あ、の…!」

腕を掴まれて、動けなくて。振りほどこうにも今は相手はお客さんで。あまり騒ぎにはしたくないし、と思いながら助けを求めようと辺りを見渡す。その時。

「すみませんが…」

引き寄せられるように強く腕を引かれて、バランスを崩して数歩後ずさる。私を引き寄せた人を見上げれば、笑顔を浮かべているのにどこか笑っていない気がして。
私に声をかけていた男の人たちは、少しだけイラついたような表情を見せる。でも、安室さんはそんなことお構いなしに口を開いた。

「彼女、売約済みなんですよ。探すならほかの人にしてもらえますか?」

笑っているのに冷たい声に、目の前の男の人たちの顔も引きつった。

 + + +

「あの、安室さん!」

バイトの時間が終わって、裏口から帰ろうとする安室さんを引き止める。どうかしましたか?なんて仕事中の出来事は全く気にしない素振りを見せる安室さんに一瞬戸惑いつつ、小さく謝罪とお礼を述べる。すると、安室さんはそんなことですか、と笑いながら言って私の頭を撫でた。

「あれぐらい、気にしなくていいですよ」
「でも、安室さんがいてくれたから助かりました」
「むしろ、謝った方がいいのは僕の方な気がするんですが…」
「え?」

安室さんが、申し訳なさそうに私を見る。何か変なことでもあっただろうか、と首を傾げれば、少しだけ言いにくそうに売約済み、なんて言ってしまったんで…と言われる。そう言えばそんなことを言っていたな、とあのときのことを思い出すも、咄嗟の嘘だから仕方のないことだし、そもそも助けられたのだから責めるつもりなんてない。

「恋人がいるわけでもないですし、アレぐらい気にしませんよ」
「恋人、いないんですか?」

目の前の彼が、驚いたように私を見る。恥ずかしながら、まだ一度も。そう告げれば、安室さんは笑みを浮かべて私の髪に触れる。恋人がいないのは、僕と同じですね。そう言われて、妙に恥ずかしくて、安室さんから視線を逸らす。多分、顔も、赤い。

「…僕としては本当に売約済みにしてしまいたいんですけど」
「え?」
「僕じゃ、ダメですかね」

安室さんの指が、私の頬をなぞる。恥ずかしくて、視線を合わせられなくて。胸の高鳴りが、早まる。彼の言葉が、そういう意味でいいのか、分からなくて。私の勘違いじゃないのか、からかってるだけではないのか。そんなことばかりが、頭を巡る。けれど。

「好きですよ、名前さんのことが」

少しだけ頬を染めて告げられた言葉に、逃げ場はないのだと悟る。何か言いたいのに、言葉にならなくて。ただ恥ずかしくて、自身の服をきゅっと握って俯く。
安室さんのことは、気になるだけ。気になるだけ、だったのに。胸が、ドキドキする。安室さんに、聞こえるんじゃないかってぐらいに、強く。

「名前さん、」

優しく呼ばれる名前が、心地よくて。でも、どこか苦しくて。

「私、なんかで、よければ……」

ちらり、と安室さんを見れば、嬉しそうに笑みを浮かべた彼に、引き寄せられた。

2015.07.23