物語に終焉を
「別れよっか」
久しぶりに訪れた秀一の部屋で私が呟いた言葉が、部屋に響く。秀一は、私がこの言葉を発するのを察していたのだろうか。特に驚いた様子も無く、私の顔を見ていた。
「嫌いに、なったか」
「嫌いじゃないわ。好きよ、秀一のこと」
秀一に近づいて、頬に触れる。いつだって彼は不健康そうで、それさえもたまらなく愛おしかった。不器用なりに彼は私を愛してくれていたし、それに不満なんてなかった。けれど。
「私も、貴方と同じだもの。二人の人を同時に愛せるほど器用じゃない」
秀一が私の手を掴んで、引き寄せる。痛いぐらいに抱きしめられるその腕が、微かに震えていることを感じる。
私の言葉に、彼は今回の私の仕事に気付いたのだろうか。それとも、ボスに彼にだけは、と事前に言われていたのだろうか。FBIから再度、あの組織に潜入させるということを。そしてそれは、仲間にでさえ知らされないということを。
「思っていた以上に、苦しいな」
珍しく、秀一の声が震えていた。私が彼の腕の中から見上げれば、泣きそうな顔をしていて。長いこと彼と一緒にいたけれど、彼のこんな顔を見たのは初めてではないだろうか。そんなことを思いながら彼の頬に触れる。
「分かっているのか…。この仕事が、どういうことを意味するのか」
「秀一だって、同じだったでしょう?私一人の命であの組織を滅ぼせるなら、安いものよ」
たとえ滅ぼせなくたって、中枢に忍び込めればそれだけ情報を得ることが出来る。そこにたどり着くまで、何年かかるかはわからないけれど。
「なんで、お前なんだ」
「それだけ、中枢に近づける見込みがあるって評価されてるからでしょう?」
秀一だって、同じだ。中枢に近づけると判断されたから組織に潜入した。そして、結局はバレてしまったけれどラムの側近にまで接触することが出来ていた。潜入を任される、ということはそれだけ評価されているということは確かだ。
「本気、なんだな?」
「本気よ。それに、貴方と恋人だなんてバレた方が問題だもの」
「…名前、」
秀一が、私の頬に触れる。それが何を意味するかなんて、もうずっと前から知っている。ゆっくりと瞼を閉じれば、秀一が私の唇に触れる。彼に触れられるのも、これが最後。次からは、秀一を忘れて別の男を愛して触れられなければならない。
離れることを惜しむように何度も繰り返さえる口付けに、彼の服をぎゅっと握る。泣かないと決めたのに、鼻の奥がつんとして泣きそうになる。
何度、口付けを交わしただろうか。ゆっくりと離れた秀一の顔は泣きそうで、でも、きっとそれ以上に私の方が泣きそうで。私はそれを誤魔化すように俯いて手を自身の首の後ろに回す。そして首にしていたネックレスを外して、秀一に押し付けるようにして渡した。きっと、コレを持っていたら私はいつまでも彼を忘れられない。
「返しておくから…、」
「期待、してもいいか?」
彼の言葉に、私は首を横に振る。私が生きて帰れるかは、自分にもわからない。もしかしたら、何年経っても戻れないのかもしれない。私は、彼にそんな長い年数を待たせたくはない。好きだからこそ、別の相手でもいい。隣が、私じゃなくてもいい。幸せに、なってほしい。
「バイバイ、秀一」
きっと、彼を名前を呼ぶのもコレが最後。秀一の家を出たら、私と彼は恋人じゃなくなる。彼から離れて、鞄を取って、秀一の顔を見ないままに部屋を出る。彼が私の名前を小さく呼んで、それさえも無視をして。
玄関で靴を履いて、合鍵があったんだと思いだした。コレも、返さなきゃいけない。私を追うようにして玄関に来た彼に、ん、と言って鍵を渡す。もう、ストラップを外すのさえ嫌だった。持っていたら、秀一のところへ戻りたくなる。
「私、秀一といられて幸せだったよ」
顔を見ずに、呟く。見たら、涙が零れそうだ。彼に背を向けて扉に手をかけたとき、彼が私の名前を呼んだ。私は振り向かないまま、動きを止めて彼の言葉を待つ。
「誰が何を言おうと、俺だけはお前を信じてる」
「……バカ、」
私の言葉は、彼に聞こえたのだろうか。それぐらい、小さかった声。私は彼から逃げるように家を出て、扉を閉める。ぽたりと落ちた涙は、彼からは見えないでほしいと願った。
2016.05.20