昔々のお話
彼女に初めて会ったのは、組織に潜入するよりもずっと前のことだった。
「―――――」
たまたま泊まったホテル。夜な夜なプールに人魚が出る、だなんて噂のあるホテルだった。そんな噂に興味は無かったが、たまたま外から聞こえてきた歌声に外を見渡した。
丁度、借りているこの部屋からはプールが見える。そこを見下ろせば、確かにそこには人がいた。
(こんな時期に……?)
今の季節は冬。今日は降ってないが、時々雪が降ることもあるような季節だ。それに今は、もう日付が変わるような時刻。
水の中に出たり入ったりしている様子を見る限り、清掃ではないのだろう。
「………?」
俺の視線に気付いたのだろうか。プールで泳ぐ彼女は歌うことを止めて、俺を見上げた。視線が交わると彼女はハッと驚いたようにプールの中に潜る。夜のプールに潜りこんだ彼女の姿はまるで闇に溶けるかのように見えなくなった。
アレが、本当に人魚だとでもいうのだろうか。ただのプールで泳ぐ女に見えたが。
どうにも疑り深い性格は現実主義者とも言えるのだろうか。確かに潜って数分程経っても、彼女がプールの水面に顔を出すことは無かった。ダイバー等なら5分や10分ぐらい潜っていられるらしいが、果たして彼女はいつ出てくるのか。興味本位で、人がいなくなったように見えるプールを見下ろす。
(……15分、か)
時計を確認して、再度プールを見渡す。どこかに繋がっているようには見えないし、プールから視線を外したのは部屋の中の時計を確認する一瞬だけだ。その間に出たとは考えにくいだろう。それならば、いっそのこと。
(プールに行って確認してみるか…)
人間の興味本位とは恐ろしいものだ。引き寄せられるように、俺はプールへと足を運んだ。
+ + +
(鍵は、開いているんだな…)
プールへの入り口の鍵は、かけられていなかった。それどころか、入ってくださいと言わんばかりに少しだけ扉が開いていた。そこに入れば、部屋にいたときと同じ歌声が聞こえてくる。
「っ………」
思わず、息を飲んだ。空に向かって、プールから肩から上だけを出して歌う彼女の姿が、とても綺麗だったから。
ギィ、と扉が音を立てた。その瞬間、プールにいたその女は歌うのを止めて俺を見た。まじまじとこちらを見ていて、さっきみたいにプールの中に潜る気配は無い。
「お前、は……」
何者なのか。そう聞こうとしたとき、彼女はパシャリと水音を立てて反対側のプールの端まで泳ぐ。殆ど水をハネさせずに泳ぐ姿は、本当に人魚のようだと思った。
彼女は何かを手に持ってプールの端から戻ってきて、俺がいるところから一番近いプールの端にその何かを置いた。それは、小さいホワイトボードに見える。
サラサラとそれに何かを書いて、彼女は俺に見せた。
――I can't talk.
ホワイトボードに書かれた文字。それを見て喋れないのか、と尋ねると彼女は真っ直ぐと俺を見ながら頷いた。
「寒く、ないのか。こんな冬の日に水の中にいて」
――Not cold.
「何故こんなところにいた」
――It is a secret.
彼女はニッコリと笑いながら、俺の質問に答える。答えられないところは内緒だと言って、教えられるところは教えてくれた。
いつもここにいるわけではないらしく、時折このプールを借りてこうして泳いだりしているらしい。それが夏だろうと冬だろうと平気らしく、雪が降る中泳いだこともあるのだとか。考えられんな、と思うも気温が低い今も彼女は水の中にいるのだから事実なのだろう。
彼女が人なのか人魚なのかは分からない。だが、それを聞いたら彼女はどこかに消えてしまう気がした。
+ + +
他愛もない話をしたり、彼女が歌ったりして過ごしていた。けれど、夜は明けるもので空は徐々に明るくなってきていた。
彼女はプールの端に腰かける俺の傍に寄ってきて、パシャリと水音をさせながら両手を差し出す。その手を取れば、プールにいたからだろう。ひんやりとしていた。
彼女の手が、俺の頬に触れた。そのまま、彼女に口付けられる。死を連想させるような、冷たい口付け。
「っ……お前、は…」
唇が離されると、彼女はふわりと笑った。消えそうなほど小さな声で、『またね』と呟いて彼女の身体が水の中へと消えた。
明るくなってきた空によって、水の中が見える。彼女の身体に脚はなくて、代わりにあるのは大きな尾びれ。一瞬だけ見えたそれは、溶けるように…否、泡にでもなるように消えた。