01.死んだ熱帯魚


少し、信じられないような話をしてもいいだろうか。


こんな話はきっと誰にも信じてもらえないだろうし、私がここにいる限り誰にも話すことはないだろう。私自身、もう君たちのいる場所には戻れないと思ってる。
だけど、もし君がこの話に辿り着いたとするならば、それもきっと何かの縁だと思う。

それは突拍子もない話。私の、唯一の秘密。







その日は所謂誰にでもあるようなツイてない日だった。
朝から何となく倦怠感が抜けず、ぼーっとしてたらおろし立てのブラウスにコーヒーをぶちまけて、慌てて着替えて家を出るも電車に乗り遅れ会社に遅刻。挙げ句の果て大事なプレゼンの資料を忘れ、上司は激怒。手当のない大量な残業を泣く泣く終わらせ、さあ帰ろうとしたところで、天気予報にない雨。傘はない。

不幸吸引機か、私は。いや、今日がただ酷すぎる1日ってだけで、きっと明日には元に戻ってるはず。つーか戻ってください、お願いします。

「…はあ……死にたい」

断っておくと、本当に死にたいとは思ってない。
ただ、一種の現状への愚痴のような、ある種の口癖のような、そう、この時もただ雨が降ってることにイライラして思わず口からポロっと出ただけ。私自身、どちらかというと楽観的で、嫌なことがあると落ち込むより先にイライラするタイプ。
兎に角、私の「死にたい」は不利な状況に陥った時の決まり文句みたいなものだった。

まあ、本当に死ぬとは思ってもなかったわけなんだけど。



結果から言うと私は殺された。正しくいうと、多分殺されたんだと思う。恐らく。

何でって言うと、まあ、男女のもつれ的な。

結婚前提で付き合っていた上司が実は既婚者で、子持ちだったことが発覚したのが数日前。私が別れを切り出したのがその直後。だけど何を血迷ったか、上司は「妻とは別れる」の一点張りで。子供がいるのに何言ってんだこいつ、と思った私はそれでも断った。そうでなくても不倫相手と結婚するなんて、結婚後不倫されても文句は言えない。そんな相手と結婚なんて言語道断。何より今の奥さんとお子さんが不憫すぎる。
それでもしつこくて、だからここぞとばかりに言ったのだ。

「遊びだったの。でももう冷めたから」

それが昨日のこと。
私としてはこれで上司が引いてくれたら万々歳だなーと思ってついた嘘だったのだが、相手はかなり逆上したらしい。

そして今日、雨止まないかなーなんて歩いていた私の背後から、手が突き出されて何か理解する前に首に圧迫感。苦しくてもがいていたのも一瞬のうちで、すぐに視界が暗転、私は気を失った。

ただ、上司の香水の匂いがしたのを覚えている。

だから、多分、殺されたんだと思う。死んだ後になっては確かめようもないし、偶々殺される理由がそれしか思い浮かばないだけで、本当は別の人に殺されたのかもしれない。
まあ、今となっては割とどうでもいいことだ。誰が私を殺したかなんて。

そんなことを言ってられるのも、何もかも、死んだ後に問題があったからだ。
正直死んだ時の真実なんて構ってれないほどに、それは厄介だった。



思ったより小説のネタにもならないようなつまらない死を遂げた私は、ただ呆然と、ああ人って意外と簡単な動機で殺されるんだなあなんて思っていた。

言っちゃ悪いが、ストーカー殺人とか、通り魔に刺されるとか、上から鉄骨が落ちてくるとか、トラックに轢かれるとか、重病にかかって死ぬとか……なんかもっとないのだろうか。
不倫相手に首絞められて死ぬって、リアルすぎて逆にない。ドラマもひったくれもあったもんじゃない。一般的な殺され方過ぎて科捜研の女も呆れてるよ。って、そうじゃなくて。


目が覚めたら寝ていた。
いや、当たり前なんだけど。寝てたから目を覚ますのであって、目を覚ましたら寝てるのはそりゃあ、当たり前のことなんですけど。
それ以前に、あれ、私死んでなかったっけ?ぱちぱちと瞬きをする目から見えるのは、救急搬送先の病院でも、霊安室でもない。例えるなら、そう、子供部屋だ。……子供部屋?

「ああ、起きたのね。どう?苦しくない?」

ガチャ、と扉が開いて入ってきたのは、自分と同じくらいの年齢の女性。しかし面識はない。状況を聞こうと口を開く前に女性の手が自分の方へと向かってきた。

「熱は……さっきより少し下がったかしら……」

あ、手、冷たくて気持ちがいい。女の人の手なのにも関わらず、その手は私の顔の半分を覆い尽くしていた。
何だか、あれ、女性にしては手が大きくない?

「優美ちゃんの好きなプリン買ってきたのよ。お薬飲むのに少し食べましょうね」

まるで母親のような女性の様子に、本当に母親なのでないかと錯覚を覚える。でも、私はこの人の顔をしらない。

まさかと思い自分の身体を見た。
閉じれない膝、短い腕、ぷくぷくした指。

「お、お母さん…?」
「なあに?ふふ、ママって呼ぶのは卒業したの?」

ぺりぺりとプリンの蓋を剥がす女性の瞳には、小さい子供が映っている。どういうことか理解が追いつかない。「優美ちゃん?」名前はどうやら変わらないらしい。

紛れもない事実がまるで刃物のように私に突き刺さる。
まじでどういうこと、これ。夢?夢なのか?それとも前世の記憶を持ったまま女の子に成り代わって第二の人生開始パターン?
ええい、どうにでもなれ。これが夢だったとしても、醒めたら私は死ぬのだから。それまで擬似人生を人生らしく謳歌するのもいいかもしれない。


あれから何回か寝て起きてを繰り返しているが、一向に夢が覚める気配はない。

寧ろ夢ではなさそうだ。つまり文字通り第二の人生が開始したっぽい。

兎に角情報集めをしようと、まずは苗字を知るために家に届く郵便物を覗いてみた。それと同時に嫌なものを見てしまった。そう、己の住所である。何度見返しても変わらない。

住所の欄には「米花町」。


あのう、すみません。早すぎて展開が追いつかないよ。