10.記憶の深海魚

 工藤先生の助手になって早数日。特に習い事や部活をやっているわけでもない私は、学校が終わるとすぐと工藤邸へと向かい(仕方がない、お誘いのメールがくるのだから)、工藤先生の助手をやっていた。
 あの世界的有名作家、工藤優作の助手と聞いて何をやるのかと緊張していたのも束の間、私がやることと言えば、行き詰まった工藤先生の話し相手になったり、先生のネームを読んで感想を言ったり、暇を持て余した有希子さんの話し相手になったり…、あれこれ私がただ幸せなだけじゃね?大ファンの作家と女優と楽しくお話しをしているだけである。ネームの感想と言ってもただただ興奮してスゲー面白い!やばい!最高!という語彙力皆無な感想しか言ってない。まるで役に立っていない。
 これは流石に、と思って雑用を申し出ても、家事給仕その他工藤先生のサポート全般は有希子さんが全部済ませてしまう。曰く、暇すぎて手持ち無沙汰になってしまうそうな。なるほど、そう言われてしまえば引き下がるしかない。

「でも、良いんですか?私なんかで。もっと他に、こう…話し相手として相応しい人はいくらでもいると思うんですけど」
「いや、優美君以外にはいないよ」

 何故私なのか。いくら聞いても、工藤先生はきっぱりざっくり「君自身がインスピレーションのようなものさ」とイケメンダンディオーラ全開で答えるだけだ。私も「あへ、へへ、そうですか、へへへへ」と照れ笑いするしかない。

 だって本当にイケメンなんだもの!眼球が溶ける!

「有希子さん!何か手伝わせてください!」
「優美ちゃん、気にする必要はないって言ってるでしょ?」
「違うんです…!!家だと母が家事を全て私に丸投げして一切やらないので、親子で料理〜〜とか一緒に洗濯物干す〜〜とか、そう言うのに憧れてるんです…!……私にとって、有希子さんはもう一人の母のような存在だから……」
「…!優美ちゃん…!そう、そうだったのね…!…じゃあ、一緒にお昼作らない?」
「…!有希子さん…!」

 こうして母という一人の尊い犠牲を出した私は有希子さんの手伝いというポジションを手に入れた。中学生の娘をSP代わりにしたり、休日誰とも遊びに行かない娘を心配せずに都合が良いと買い物の荷物持ちにしたりする母である。たまには私が母に逆襲したっていいだろう。因みに嘘は言っていない。セーフセーフ。

「有希子さんは今まで休日をどう過ごしてたんですか?」
「うーん、新ちゃんはいつもいないし、買い物とかかしら」

しんちゃん、と、恐らく人の名前であろう聞いたことのない単語が出てきた。パッと思いつくのはあの国民的ケツアニメの某クレヨン主人公である。……この神遺伝子の二人からは生まれないだろうけど。
……みさえ、ひろし、あんたらも立派な母ちゃんと父ちゃんだよ!

「へえ、息子さんがいらっしゃるんですね!」
「あら、優美ちゃんも知ってる筈だけど。同じ幼稚園だったんだけど…覚えてないかしら?」
「…あー、幼稚園かー……残念ながら、幼稚園の記憶は全然ないんですよねー、一回高熱出してから全部忘れちゃったらしくて」

 幼稚園と言えば、私が高熱を出す前のこと、つまり私がこの世界に来る前の話である。懐かしい話だ…。
 熱を出した後の私は、治ってからも幼稚園には行かず自宅で1日を過ごしていたから、てっきり幼稚園には元から通ってないのかと思ってたけど…、どうやら違うみたいだ。
 そう言えば母と買い物中に初めて有希子さんに出会った時も、彼女は元から私のことを知っているような口ぶりだった。

「……へえ、私幼稚園通ってたのか。なんで行かなくなったんだろ。今度お母さんに聞いてみようかなあ」

 独り言として呟いたそれに、洗い物をしていた有希子さんの手が止まる。それを不思議に思い有希子さんの方を見ると、有希子さんはじっと私を見つめていた。

「ゆ、有希子さん…?」
「……なんでもない!そうね、今度聞いてみると良いかもしれないわ。それに、今度新ちゃんがいるときでもうちにいらっしゃいな」

 きっと新ちゃん喜ぶわねえ、なんて言いながら有希子さんは洗い物を続ける。私はそれに少しの違和感を感じながらも、幼稚園の話は既に頭の中から消えていた。


▽▲▽


「ただいまー」
「あらっ、お帰りなさい新ちゃん!」

 工藤新一は乱雑に靴を脱ぐと、いつもは静かなリビングルームに向かう。今は父親の書いた小説の試写会か何かで一時期帰宅している両親がいるため、大分賑やかだ。

「…あれ?母さん、誰か来てたのか?」
「えー?」

 新一が水を飲みにキッチンへ行くと、食器の水切りに3人分のコーヒーカップが置いてあるのが目に入る。この家に家族や蘭以外の人が来るなど珍しい。
 しかし、新一の何気ない質問は料理に夢中な母親まで届かない。まあ大方父の仕事の関係か母の友人でも訪れたのだろうと、新一が深く気に留めることはなかった。

 夕飯時。いつも豪勢な料理を作る有希子だが、それにしても今日は品数が多いと新一は感じていた。同じことを新一の父親である優作も思ったのか、その顔は少しだけ困ったように笑っている。

「…ん?」
「どうかしたの?新ちゃん」
「これ本当に母さんが作ったのか?」

 いつもと味が違う。新一は料理のことはからっきしだが、味覚だけは人並み以上に優れていた。優作は「ほう」と何か思案しながら料理を食べる手を止めない。顔を傾げる新一に有希子が嬉しそうに笑う。

「気付いた?今日は新しいレシピを教えてもらったから早速作って見たのよ。どう、美味しい?」
「…まあ、いんじゃねーの」

 実際、極々小さな感動をするぐらいには美味しかった。量は問題だが、さすが有希子が作るだけあってどれも美味しい。
 推理するまでもない。簡単に考えれば、新一の母である有希子の友人が客としてこの家に訪れ、有希子にレシピを教えて帰った。よくあることだ。新一はそう勝手に解釈をすると、もうその客のことは頭になかった。


 次の日。
 新一はいつもの通り事件を解決してから帰宅し、水を飲みにキッチンへ向かう。

「…?」

 そこには昨日と同じように並べられた3つのコーヒーカップ。昨日のものが放置されたままなのかと思ったが、今朝は何もなかったことを思い出す。また今日も客が来たのかと新一は推測したが、そこでふと小さな違和感に気付いた。
 使われているコップが、来客用のものではなく、新しい―――いや。見たことないコップだと思ったが、よくよく見るとどこかで見たことがあった。一体どこだったか。量産されているようなものではないので、見たことがあるとすれば恐らくこの家で間違いないだろう。とすれば一体いつ。どんな状況だったか。思い出せそうで思い出せない自分の記憶に、少しだけ苛立ちを覚える。

「――いちくんと―――いだね」

「新ちゃん、ちょっと手伝ってぇ」

 捕らわれていた思考の波から現実へと引き戻される。思い出しかけていた何かは、また記憶の奥底へと息を潜めてしまった。新一は数秒コップを見つめた後、諦めたように一つ息を落とし、自分を呼ぶ有希子の元へと足を向けた。

 また新しいレシピを教えてもらったのだという有希子の料理を口に運びながら、新一はとうとう疑問に思っていたことを口に出した。

「なあ、最近家に誰が来てるんだ?」

 恐らく母親の友人だろうと推理していた新一だったが、その問いに答えたのは母親ではなく父親の優作だった。

「ああ、最近助手を雇ってね」
「助手?父さんが?」

 思わぬ人物からの思わぬ言葉に、数々の事件を解決して来た新一も困惑せずにはいられない。助手だって?あの父さんが?一体なぜ、いや、それよりも父さんが助手を雇うなんて一体どんな人物なんだ。

「それって―――」
「彼、もしくは彼女のプライバシーに関わるからね。すまないが質問には答えられない」
「――性別すらもダメなのかよ」

 新一が質問するのを分かっていたような優作の言葉に新一はますますその「助手」が気になって来た。探偵とは真実を暴くことが生きがいだ。隠されれば隠されるほど、その正体を暴きたいと思うのは探偵としてしょうがない性分なのかもしれない。寧ろ、新一は「助手」の正体を暴くことが優作からの挑戦状のようにさえ思えた。

 ―――絶対に正体を突き止めてやる。

 そう決意した新一の顔は、どこかわくわくしているようにも見えた。