※史実に関する記載があります。
「どこを見てるの」
幼い子供の問いに、彼女が答えることはついになかった。
隣接する愛たち
物心ついた頃から英才教育は始まっていた。武術、戦術、人心掌握術、人の上に立つ為に必要であれば学ぶ機会が与えられ、その全てにおいて人よりも出来が良かった。その所為か、学びや生活の中で何かにのめり込むことはなく、与えられたものをただこなすだけのつまらない幼少期を送った。
彼女との出会いをはっきりと思い出せないが、戦術を学ぶ為の軍師学校に通ううちにいつの間にか先生の従者になっていた人だった。歳上で面倒見が良く、明るい性格もあってか学校では人に囲まれていることが多かったように思う。
俺が彼女という存在を認識したきっかけが視線だった。誰もいない場所に向けられるそれが俺達のような子供に向けるものとは全く違うものだと理解した時、幼いながらにひどく興味を引かれた。
もちろん、尋ねてみたことはある。だが、決まって彼女は笑うだけで明確な答えを返すことはなかった。今思えば彼女にとって俺は正しく「子供」だったのだろう。
軍師学校を卒業し、縁談が舞い込むような歳になっても彼女への興味が失せることはなかった。急に伸びた背に俺を見上げ、抜かれてしまいましたね、と笑ってもそれは子供に対してのものと何ら変わらない。そしてやはりあの視線は誰もいない場所に向けられていた。
「何を見ているのですか」
ああ、幼い頃は気が付かなかった。彼女の笑顔には悲しみが滲む。
それから、彼女が俺の前であの視線を何かに向けることはなくなった。
戦場で武功を上げる度、周りには人が増え、戯れに付き合う女性には困らなかった。女性を連れ立っている時に彼女とすれ違うこともしばしばあったが、声を掛けることも掛けられることもなければ、目が合うこともない。そんな日は決まって女性を早々に帰し、彼女の元へ足を運んだ。
「いつも違う方とお見受けしますが」
茶化すような諌めるような、そんな口調で言い聞かせる。いつものように彼女の言葉に耳を傾けながら表情を眺めていると、蒙恬様、と名前を呼ばれる。
「良いお話は沢山ありましょうに、そろそろ落ち着かれてはいかがですか」
「貴女はどうなんです?」
何の気なしに放った言葉が的を得ることはあるだろう。この時だってそうだ。
「私はあの御方にお仕えする身、そのようなお話には御縁がありません」
「そうかな、縁談があれば先生だって快く暇を出してくれそうですけど」
彼女の表情には見覚えがあった。悲しみの滲むその笑顔を見たのは久し振りにだったが、本当に相変わらず美しい。弧を描く唇が一瞬、震えたように見えたのは気の所為ではないはずだ。
「そうですね、とてもお優しい方ですから」
心の隙間が垣間見えたのは俺があの頃より少しは成長したからだろうか。きっと誰にも気付かれないように大切にしていた想いなのだろう、想いを口にするどころか、その姿を追って瞳に映すことすら憚るような。何も無い場所に視線を向けてはその人に想いを馳せる、それは言葉を持たない吐露だったのか。
先生が罷免されたという報を聞いたのは数年後のことだった。楚の郢陳を統治することになったという先生の出発はあっという間で、顔を合わせることも出来ず、何も話せないままにその日は過ぎてしまった。
彼女ともこれきりなのか。胸に残る喪失感は焦げ付くようにじりじり痛み、反対に心は冷えていく。ふと、人混みの中に彼女の姿が見えたような気がして視線を移したが、そこには誰もいなかった。遠くの景色にいないはずの彼女を重ねてしばらくの間それに意識を奪われる。勝手に込み上げる何かを強く押し止めると、嫌でも自覚させられた。
「蒙恬様、何を見ておられるのですか」
隣を歩く女性に声を掛けられ我に返る。
「何でもありませんよ」
貴女もこんな気持ちだったんでしょうか。
******
数日経ってやっと軍師学校へ足を運ぶと、思いの外賑わいをみせる様子に違和感を感じた。先生がいないのにどうして、介億や他の従者は先生と共に秦を去ったはず。
窓から覗く机に向かうその姿を見付けて思わず声を上げた。
「どうして貴女がここにっ」
顔を上げ、こちらを向いた彼女は口元に笑みを浮かべて困ったように眉尻を下げた。
部屋へ入ると、整頓されてほとんど書物や什器しかないところにぽつんと佇む彼女がいる。多少やつれていて目元には疲れが見えた。
「ここを任せる、と仰せつかったので」
「でも貴女は、」
「連れて行ってくださいと申し上げました」
震える声で遮ると、揺らめく瞳で俺を見上げた。
「何度も何度も、申し上げました。けれど、最後まで許してはいただけなかった」
最後の方は消えそうな声で訴え、そのまま項垂れるように下を向いた。その姿を見て愕然とする。
先生、貴方は残酷な人だ。自分の側に彼女を置くことなく、この学校を与えた。貴方との思い出があるばかりのこの学校を。きっと彼女は貴方を忘れられない、ここで絶え間なく貴方を想い続けるに違いない。そんなに彼女を縛り付けたかったんですか。己と同じ不遇を背負わせることなく、不自由のない生活を送らせたかった、その身が秦に戻ることはなくても、彼女の心は手放せなかったんですね。
「顔を上げてください」
彼女は貴方に心を奪われたまま、この先も貴方の為に涙を流し、貴方が残したものの為に生きていく。その姿を俺はただ見ているしかない、何て不条理で馬鹿馬鹿しい話だ。それなのに、心はどうしようもなく彼女に惹かれているのだから笑えない。
「俺がいます」
先生が連れて行った心の抜け殻は、あまりに美しいまま俺を見上げた。
END & thanks!!
title by ユリ柩様