「お疲れ様です」

「お疲れ様」

「出来てますか?」

「まあ、入ってくれ」


今日は玄関越しのやり取りで済ませたかった。ため息を吐きたくなるような気持ちを面に出さないように口角を上げる。失礼します、と声を掛けて広い玄関の隅に脱いだ靴を揃え、頭の中では印刷所の締切までの日程や時間を逆算してしていた。


「先生、あと何頁ですか」


聞きたくないが聞かなくてはならない。先生の服や髪を見たところ、それ程追い込まれてはいないように思える。人気作家の先生ならギリギリのギリまで待ってもらえるはず。今は夕方の五時、明日の昼くらいまでなら、


「……」

「先生?」

「二十頁」

「……」

「顔面蒼白だな」


ははっと面白そうに笑う先生を見ていると気が遠くなる。これは落ちた、絶望的な現状に絶句し頭を抱える。


「で、でんわ」


震える手で鞄から携帯電話を取り出して編集長の番号をタップする。数コールの後に応答があり、怒られると思いながらもすぐに現状を報告すると数秒の沈黙の後に返ってきたのは原稿もらうまで帰るな、という言葉だった。先程より血の気が引いて、携帯電話を握り締めたまま振り返って先生に縋り付く。


「せんせぇ」

「君の為にも何とかあげないとな」


我が意を得たりと何度も頷いて書斎に向かう先生を見送った。そもそも、先生の筆は早い方でここまで書けていないことは私が担当してからは一度もない。原稿をいただきに訪れてもほとんど待たされずに渡されていたし、もちろん連載を落としたこともないからまさか先生が、という思いが浮かぶ。これがスランプの前兆だったら。
腕時計をちらりと見て台所に向かった。


濃いめに入れたコーヒーを持って書斎のドアをノックする。返事があってから入ると、掛けていた眼鏡を少しずらした先生と目が合う。


「良かったらコーヒー飲まれませんか」

「ありがとう、いただくよ」


カップを手渡して遠慮気味に部屋を見渡すが先月来た時から変わった様子はない。書けていないならもっと部屋が荒れてても良いものだけど。


「すまない、何か予定があったんじゃないか」


「いえ、特には……」


心を読まれたような気がして目を逸らす。


「私のことなどお気になさらず、先生は原稿のことだけを考えてください」

「君は仕事人間だな」


今の会社に入って七年、どこに顔を出しても新人と呼ばれなくなってやっと担当を持たせてもらえるようになった。先生の作品を世に送り出すことが私の大切な仕事だ。失敗したくないし、中途半端なものにしたくない。それに比べたら今日の私の予定なんて大したことじゃない。


「私に出来ることは何でも仰ってください、絶対間に合わせましょう」


先生が何か言いかけた時、携帯電話の着信音が鳴った。すいません、と断りポケットから携帯電話を取り出して着信元を確認する。


「出てもらって構わないぞ」

「いえ、後で大丈夫です」


指先で画面をスワイプして着信を拒否する。その腕が先生に掴まれたのは一瞬後のことだった。


「先生?」

「予定の相手だったんじゃないか」

「え、あの」

「隠さなくていい」


いつもと雰囲気が違う先生に声が出なくなる。腕を引かれ、倒れ込むようにして体重を預けるとそのまま抱き締められた。状況が飲み込めないままやっとの思いで口を開く。


「せ、先生、どうされたんですか」

「ただの嫉妬だ」


腕の力が強くなると、心臓が壊れたのかと思うくらいばくばくとうるさく鳴く。


「今日は君の誕生日だろ」

「どうしてそんなこと」

「君のところの編集長に聞いたんだ。その日は残業しないと言ってるから予定がありそうだと」


腕が解かれて熱が離れてゆく。混乱しながらも先生が言った嫉妬の意味を理解してじわじわ顔が熱くなった。


「君を引き留めたくて嘘を吐いたが、原稿は出来てる」


引き出しから大きな封筒を取り出し、それを私の眼前に差し出した。受け取った封筒は分厚く、中には見慣れた原稿の束が入っている。


「君は真剣に仕事をしているのに大人気ないことをしたな、すまない」

「あ、あの」

「どうした?」


いつもと違うとても優しい声で先を促されると何故かこちらが恥ずかしくなる。言葉に詰まって思わず下を向くと、先生の指が俯く私の顔の横に落ちた髪を掬って耳に掛ける。指が微かに耳に触れるとびくっと勝手に肩が跳ねた。意識し過ぎだと思われてるに違いない、そう考えると更に耳が熱くなる。
いやいや、流されるな。作家と編集なんて絶対に駄目、碌なことにならないに決まってる。理屈がどうしても先になるのは年齢的にも立場的にも仕方のないことのはずだった。


「やっぱりどうしても君が欲しい」


低く囁かれた言葉に顔を上げると顎を捕まえられ、唇を押し当てられた。ぬるりという舌の感触にぞわぞわしたものが背筋を這い上がる。口内をゆっくり、何度も何度もなぞられると、世間体とか立場とかどうでも良くなるくらい気持ち良くて、ちゅっと音がなる度にお腹の奥が溶けていく。

長いキスから解放される頃には先生の服を握りしてめ、息を荒らげながらその胸に顔を埋めていた。


「後悔はさせないから、私を選んでくれないか」


ぼうっとする頭で何度も頷き、抱き締められながら目を閉じた。






愛してしまったふたりごと






「あ、電話」


呼吸が整うと頭が冴えてくる。
先生の胸から顔を上げると携帯電話が手元にないことに気付いた。知らないうちに落としてしまっていたようで、辺りを見回すと机の脇の床に転がっている。あったあったと屈もうとするが、私が拾うより早く先生の手が伸びていた。私の手に携帯電話を乗せると先生がこちらをじっと見つめる。その視線に先程までのやり取りを思い出し、慌てて着信元が表示された液晶画面を見せる。


「先生、本当に言いづらいんですが、さっきの電話は自分に買ったご褒美ジュエリーを予約してたお店からです。今日引き取りに行く予定だったんです」

「……」

「勝手に勘違いしたのは先生ですからね」





END & thanks!!
title by 失青様