預かっている合鍵でドアを開けようと鍵を差し込む、すぐに鍵が開いている事に気付いた。
しなやかな執着
「百之助?」
呼んでも応えは無いが、奥の方からシャワーの音が聞こえた。少し安心して鞄を下ろす、手を洗おうとキッチンに移動するとシンクには皿やコップが置きっぱなしになっていた、いつもの事だ。それらを片付けて、電気ケトルに水を注いだ。コーヒーでも飲もう。ケトルのスイッチを入れたところで奥のドアが開いた。
「来るなら連絡しろ、迎えに行くって言ってるだろ」
「疲れてるのに悪いなって、ごめんね突然。それより百之助もコーヒー飲む?」
全然納得してなさそうな表情で、入れてくれと言うとタオルで乱暴に髪の毛を拭いた。私が買い置きしてあるドリップコーヒーを二つ取り出してマグカップにセットする。タイミング良くお湯が沸いた。
「明日飲み会って言ってたよね」
「ああ」
ゆっくりと少しずつお湯を注ぐ、いい香りが漂ってきた、待つ間にジャケットを脱いで椅子の背もたれに掛ける。コーヒーの色を確認して、ドリップバッグを捨てた。両手にマグカップを持ってテーブルの方へ向かう、百之助は椅子に腰掛けていたので私も向かいに座った。
「熱いよ」
すぐに口を付ける百之助に声を掛けても、聞く耳を持たないのだ、だからいつも火傷する。ほとんど飲めずに口を離してから、熱そうに眉を顰める姿は少し可愛い。髭の生えた大人の男に可愛いはおかしいか。
「何か煙草臭いな」
百之助が身を乗り出して私の髪に手を伸ばした。指先で髪を掬うとそのまま鼻先に近付ける、こちらから見ると髪に口付けをされているように見えて何とも煽情的だ。こういう時は髪を伸ばしていて良かったと思う。
「飲み会で隣の席に座ってた先輩、煙草吸ってたから」
「煙草嫌いだろ」
「うん、臭いし悪酔いしそうだったから抜けてきた」
マグカップに口を付け、何度か息を吹き掛ける、波打つように揺れるとまたいい香りが鼻腔をくすぐる。それに誘われて、恐る恐る少しだけ口に含むがいつもの通り火傷した、私も人の事は言えない。
「名前」
顔を上げると視線が合う、暗い色の瞳は確かに私を映していた。
「私もシャワー浴びてこようかな」
席を立ち、隣を通り過ぎると百之助が私の腕を掴んだ。立ち上がると身長差が目立つ、そのまま腕を引かれて百之助の身体にもたれ掛かった。伝わる体温は心地良く、シャンプーやソープの香りにほっとする、顔が寄せられて耳元に息が掛かってくすぐったいと身をよじると、首筋に口付けられた。
「ここはお前の匂いがする」
濡れた髪の毛がはらりと一筋落ちる、背筋を這い上がる感覚に抗えず、百之助に腕を回して私から口付けた。
「んっ、百之助」
離れようとしても、もっとと言わんばかりに一層深く唇を押し当てられる。声が掠れても、舌を食まれる音は生々しく鼓膜に響いた。
「ああ、お前の匂いが強くなったな」
唇を少し離して百之助が笑う。動物みたい、と口に出す前にまた唇が触れた。珍しいなと思いながら目を閉じる、口内に広がるコーヒーの香りが煙草の匂いを消していくようだった。
END
title by 失青様