「お帰りなさいませ」
「うむ、ただいま」
二日振りに家主が戻ると、家の中は火が灯ったように明るくなる。快活な性格に優れた剣術を備えた杏寿郎様を慕う隊士は多い。私もその一人だ。面倒見の良い方だから、階級に関わらず平等に分け隔てなく接してくださるところがお人柄にも現れていた。
「留守の間、変わったことはなかったか」
「はい、いつものように杏寿郎様を訪ねて何人も隊士が来ておりましたよ」
脱いだ靴を揃えて振り返る杏寿郎様の顔にはいつもと変わらない笑顔があった。
「皆、息災で良いことだ」
買ってきたぞ、とお土産のお饅頭を手渡され目を輝かせる私にも杏寿郎様は優しかった。待ちきれない私に微笑むと温かいお茶をいれてくれないか、と言ってくださったので大きく頷き足早に台所へ向かう。
火にかけたやかんの水がやがてぶくぶくと音をたて始める。火を止めて熱湯を冷ましている間にお饅頭を皿に乗せ、茶筒から茶葉を掬って急須に落とした。
ふと、考える。私の喜ぶことを先回りして与えてくださる杏寿郎様に、私は何か返せているだろうか。与えるばかりで返しがなければいくら杏寿郎様でも干からびしてまう。けれど、私は杏寿郎様から何かを求められたことはなかった。
「名前」
「はいっ」
ぼうっとしていたところに声を掛けられて思わず大きな声を上げてしまった。
「驚かせてすまない。入れ終わったら居間に持ってきてくれないか」
「お疲れでしょう、お部屋でなくて良いのですか?」
「大丈夫だ、居間で一緒に食べよう」
「はい!」
私の頭の中が筒抜けになっているのではないかと思うほどに杏寿郎様の言葉一つで私は喜んでしまう。この優しさにべったりと甘えたままでは良くないという思いはありながら、私に向けてくださる笑顔を見たいが為にそれを享受してしまうのだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
机に置いた湯のみからゆらゆら湯気が立つ。
一口、飲み下すと喉仏が上下に動き、こくりと控えめに音が鳴った。真っ直ぐに伸びた背筋や一連の所作にいつもの如く目を奪われる。育ちの良さが現れていた。
「やはり君が入れると美味いな」
「恐れ入ります」
湯のみを口元まで近付け、何度か息を吹きかけてからそっと口に含むが私にはいつもと同じ普通のお茶に思えた。皿に乗った小ぶりなお饅頭は杏寿郎様の口に放り込まれ咀嚼される。
「食べないのか」
「いえ、いただきます」
お饅頭を口に入れるとほっとするような甘みが広がる。ゆっくりと噛み締めながら久しぶりの幸福を味わうと自然と口角が上がっていた。杏寿郎様がお土産にしてくださるこのお饅頭が私は一等好きだ。次に手を伸ばす前にお茶を少し口に含む。杏寿郎様がもぐもぐとお饅頭を平らげていく様を見て、大事なことを思い出した。
「今日の夕餉はすき焼きです」
「そうか、なら甘味はほどほどにしないとな」
西日が差し始めると居間が柔らかい橙色に染まっていく。
「さつまいものお味噌汁もあります」
「豪勢だな!」
すき焼きよりお味噌汁の方が豪勢に感じるのは杏寿郎様くらいだろう。くすりと笑うと、温かく穏やかな眼差しと目が合った。
「うんと美味しく作ります」
「それは楽しみだ」
沢山用意したはずのすき焼きもお味噌汁も美味い美味いという言葉のとおり綺麗になくなって、後片付けが一層楽に済んでしまった。洗い物を終えて手を拭いていると、湯浴みを終えた杏寿郎様が廊下から姿を見せる。
「いつもすまない」
「ここに置いていただいているのですから当然です」
「俺の後で悪いが君も湯に入ってくるといい」
「ありがとうございます」
******
「お風呂いただきました」
縁側に腰掛ける杏寿郎様の背中に声を掛けると少し間が空いてああ、と返答があった。
「少し座らないか」
ここは夜風が吹き抜けて涼しい、湯上がりの身体を冷ますにはもってこいだ。杏寿郎様の隣に同じように腰掛けるとふわりと石けんの香りがした。
「お父様や千寿郎様はお元気でしたか?」
「ああ、変わりなかった」
変わりなかった、という言葉には私が尋ねた以上の意味が込められているように思えた。私が返せることは何だろう、どのようにすれば杏寿郎様のお役に立てるだろう。
「炎柱様、と呼ばねばなりませんね」
杏寿郎様はもうただの隊士ではない。先日晴れて炎柱となった。どれほどの努力を重ねても剣技の才があっても、柱になれる隊士はひと握りだ。
「気を遣うな、今までどおりで良い」
類稀な才能がありながらも血の滲むような鍛錬を怠らない、そんな素晴らしい方に私は何が出来るだろう。
「父には、柱なったからなんだと言われたよ」
「……」
ぽつりと呟かれた言葉は夜の闇に掻き消えた。隣を見上げると迷子になった子供のような横顔がある。
「千寿郎には父の言葉をその通りに伝えて、頑張って生きて行こうと言った。お前には兄がいると、兄は弟を信じていると」
千寿郎様には杏寿郎様がいる。共に寄り添い、信じてくれる兄がいる。なら、杏寿郎様には。
「こんな話をしてすまない」
「いいえ、私で良ければ聞かせてください」
日々鬼と熾烈極まる闘いを繰り広げる中で、ご家族のことや柱としての役目、手の届く範囲全てを背負い込んで守ろうとするこの方の双肩に掛かる重みを、僅かでも軽く出来たなら。
「君は優しいな」
「杏寿郎様を見習っています」
ご生家での話やほんの少しの昔話をゆっくりと聞いているうちに夜は更けていく。
雲がゆっくりと月を覆い始め、それに従い辺りが暗くなると、杏寿郎様の表情が見えなくなってしまった。闇に飲まれた先に手を伸ばそうとするが、寸でのところで指先を丸め、ぎゅっと拳を握るとやがて月明かりが戻ってくる。
「私を継子にしてくださいませんか」
「どうした、突然」
炎の呼吸を継げるかどうかは分からない、適性がなければ難しいことだから。けれど私が受け継ぎたいのは呼吸だけではないのだ。
「杏寿郎様の正義を、炎の意志を受け継ぎたいと考える隊士は沢山います。現に杏寿郎様が柱になられてから、継子希望の隊士が何人もここを訪れていますよ」
この方の炎を受け継ぐ隊士が沢山いれば、皆で杏寿郎様を支えることは出来ないだろうか。
「貴女様の抱えるものを少しでいいのです、継子に分けていただけませんか。私は杏寿郎様を支える継子としてずっとお側にいたいと思っています」
じっと話を聞いている間も吊り上がった目は大きく開かれ、そこに私を写し続ける。美しく透き通ったその目に揺らめく炎が見えた気がした。
「もちろん努力は惜しみませんが、私が呼吸を継げなくても別の継子が継承してくれれば良いのです。継子が沢山いればそれが叶います」
「名前」
名前を呼ばれて思わず口を噤んだ。
心の内を透かすような眼差しに身体が固くなる。沈黙の後、僅かに頬を緩めると杏寿郎様が口を開いた。
「俺の志や呼吸を継ぎたいと思ってくれている隊士がいるなら願ってもないことだ。だが、俺の責務を継子に負わせようとは思わない」
でも、と飛び出そうになった言葉をぐっと飲み込んで下を向く。きっと見当違いなことを言ってしまったに違いない、何を馬鹿なことをと呆れられてしまっただろうか。
「差し出がましいことを申し上げました」
「いや、俺を心配してくれたのだろう?」
杏寿郎様は私の心配が及ばないほど強い方だ、それを理解しているのに私は何を必死になって。後悔が過ぎって顔を上げづらくなり俯いたままでいると、大きな手が頭を撫でた。
「君が言ったように、継子が沢山いるのは賑やかで良いな」
私の言葉を否定せず掬い上げてくださるこの優しさは、きっと平等に誰にでも与えられるものだ。沢山の継子に囲まれる杏寿郎様の姿が容易に想像出来た。その景色を思い浮かべて少し寂しいと感じるのは、杏寿郎様と過ごす時間がとても心地好いからだろう。今、この方の近くにいられるのはいくつかの偶然が重なり合ったからで、論を俟たずとも私にとってそれは幸運だった。
「継子希望の隊士が来たら杏寿郎様にお知らせします」
「ああ、そうしてくれ」
夜空に浮かぶ月の周りには既に雲はなく、煌々と光る様子は明日の天気を想像させる。杏寿郎様が戻ったと分かれば明日はひっきりなしに来客があるだろう。
「名前」
はい、と視線を移すと杏寿郎様がこちらに顔を寄せた。
「先ほど、ずっと側にいたいと言ったのは君の本意か?」
鼻先が触れそうな距離に驚いて息が止まりそうになる。戸惑う私の答えを催促するように大きな目が私の視線を捉えてしまった。
そうです、と言ってしまえばいいのに逸ると余計に言葉が上手く出てこないのだ。唇は薄く開いたまま何度か瞬きを繰り返し、やっとの思いで頷いて肯定の意を示すと逞しい腕が背中に回る。
「嬉しいものだな」
頬に触れた髪が杏寿郎様のものだと認識した途端、耳や顔に熱が広がり心臓は掴まれたように苦しくなった。徐々に早く大きくなる鼓動が聞こえてしまうのではないかと半ばぼやけた思考を辿るうちに、私の様子に気付いた杏寿郎様の身体がゆっくりと離れていく。
「すまない、驚かせたな」
「あ、いえっ」
何度も首を振る私に優しく目が細められた。見慣れた琥珀色の瞳は穏やかで温かく、いつものように親愛に満ちている。
「君が側にいてくれるなら、これほど嬉しいことはない」
肩に添えられた手の平からは心地好い熱が伝わり、それにつられて体温が上がる。この方のお心に僅か、触れた気がした。
柔らかい心の壁
END
title by ユリ柩様