星空からの贈りもの
夢と現実の境目がわからない中で、ごそごそと何か物音が聴こえる。今何時だろう。赤井さんの腕に包まれて眠りについたところまでは覚えているのだけれど、今の私の体に彼のぬくもりはない。
「んん……」
目をこすりながらゆっくりと瞼を持ち上げると、薄明かりが灯る中で赤井さんが着替えていた。先の行為のせいかなんとなくだるさが残る体を無理矢理起こし、赤井さんに声をかける。
「お仕事、ですか……?」
声をかけてから衣服をまとっていないことに気付いて、慌てて毛布で上半身を隠した。
「すまない、起こしてしまったな」
赤井さんは体ごと振り返り、こちらへやって来る。そしてベッドに腰を下ろすと私の頭をそっと撫でてくれた。
「招集がかかった。行ってくるよ」
「こんな時間にお疲れ様です。気を付けて行ってきてくださいね」
「ありがとう」
静けさに包まれる深夜二時。優しく私を抱き寄せてから、軽く触れ合う唇。小さなリップ音が名残惜しそうに部屋に響いた。
「明日……いや、もう今日か。俺は恐らく戻れないだろうが、名前は好きなだけゆっくりしていてくれ。鍵はそこのテーブルの上に置いておく。そのまま持っていてほしい」
「え……!?」
「合鍵だ」
眠気が抜けきらない頭で聞いた言葉は思いもよらないもので、聞き間違いではないかと耳を疑ってしまうほど。残っていた眠気は一気に吹き飛んでしまったし、突然のことに動揺を隠せない。
「もう少しこうしていたいがすまない、時間だ。名前、おやすみ。良い夢を」
もう一度私に口づけを落としてから、赤井さんは部屋を出ていった。
机の上を見てみると、そこにはこの部屋のものと思われる鍵と一枚のメモ用紙。私が目を覚ますとは思わなかったのだろう。内容は先程赤井さんが口にしたことと同じものだった。
「聞き間違いじゃなかった……」
まさか合鍵を渡されるなんて思っていなかったので、嬉しいを通り越して脳内は軽いパニック状態。「おやすみ」なんて言われてもすぐに寝られるはずはなく、赤井さんの言葉を何度も何度も頭の中で繰り返していた。
◇
『鍵を持っていてほしい』
赤井さんにそう言われてから、鍵を渡してもいいと思えるほどに信頼されているのだと実感して自然と頬が緩んでしまう。
でもその言葉ははたしていつでも来ていい≠ニ同義なのだろうか。それとも、先日のような状況になったときの備えのためだけだろうか。……もし前者だったとしても、家主不在のときに勝手に家に上がるなんて大それたことはできないのだけれど。
赤井さんに本当に私が持っていてもいいのか聞きたいと思いつつも、あの日以降赤井さんからの連絡はなかった。私が送ったメッセージに返信もなし。当然お店にコーヒーを買いに来ることもない。夜中に家を出て、翌日に帰ることができないことが分かっていたくらいなのだからきっと多忙を極めているのだろう。
仕方ないことだとは分かっているのだけれど、やっぱり少し淋しい。以前にも増して赤井さんのことを好きになってしまったことで、連絡のない日々、会えない日々に淋しさを感じるようになっていた。たった二週間程度のとなのに。
「はぁ……」
赤井さんに会えない日々が続くだけで、毎日の生活の中にため息が増えてしまう。仕事中にもかかわらず赤井さんのことを考えてはため息をつき、こんなことではだめだと思考を振り払う。接客の基本は笑顔だと自分に言い聞かせて、笑顔の仮面を貼り付けた。
もうすぐ退勤時間。ちょうど人波も落ち着いた。今日も定時で上がれそうだし、明日からは二連休。せっかくの休みなのだからせめてどこか一日だけでも赤井さんから連絡があればいいな、なんて淡い期待を抱いてはみるけれど、きっと連絡は来ないだろう。
そういえば、以前にもこうして仕事に恋愛事の悩みを持ち込んでため息ばかりついていたことがあったことをふと思い出した。たしかあのときは赤井さんに彼女がいると誤解して、一人で勝手に落ち込んでしまったのだ。はぁ、ともう一度ため息をつこうとしてぐっと飲み込む。
「苗字さん、時間だからもう上がっていいよ」
時計を見ると既に退勤時間を過ぎていた。
「すみません、お先に失礼します」
「お疲れ様」
更衣室に戻り、最初に確認したのはスマホ。赤井さんからの連絡はないと思いつつも、心の何処かではほんの僅かに期待している私がいる。スマホの画面を点灯させると──
「っ!?」
不在着信が一件。相手はもちろん、連絡があるといいなと望んだあの人。更衣室で恋人に電話をするのは憚られたので、大急ぎで帰り支度を済ませて外に出た。そしてすぐに電話をかけ直す。いつもより長く感じるコール音。それが途切れた直後、ずっと聞きたいと思っていた声が耳に入った。
『はい』
「あっ、もしもし……」
『名前、お疲れ。仕事は終わったか?』
久しぶりに呼ばれた名前に鼓動が高鳴る。前に会ったときと変わらない、優しい声だった。
「今終わったところです」
『そうか。連絡できず悪かったな』
「いえ、全然……! 赤井さんはお仕事忙しいんですか……?」
本当は淋しかった。でもそんなことを赤井さん本人に言えるわけがない。咄嗟に強がってしまったけれど、きっと赤井さんに気付かれてはいないだろう。
『あぁ。立て込んでいたがようやく落ち着きそうだ。急だが今日、このあと空いているか? 名前に会いたい』
「空いてます! わ、私も……会いたいです……!」
もしかしたら、を期待して予定を入れずにいてよかった。久しぶりに会えるとなると舞い上がってしまい、自然と声に嬉しさが滲む。電話の向こう側で赤井さんが小さく笑ったのが分かった。
『よかった。少し遅くなるかもしれないが必ず帰るから、先に俺の部屋で待っていてほしい』
「赤井さんの部屋で……ですか……!?」
いつものようにどこかで待ち合わせをするのかと思っていたので、予想外の言葉を聞いて僅かに声が裏返る。
『あぁ。この間渡した鍵があるだろう? 持っていないのか?』
「持ってます、けど……勝手にお邪魔してしまっていいんですか……?」
『いいも何も、そのために渡したんだ。すまない、仕事に戻る。また後で』
淡々と話は進められ、赤井さんに何か言う前に電話は切られていた。多忙の中、仕事の合間に電話に出てくれたのだと思うときゅんと心臓が跳ねる。……理由はそれだけではない。赤井さんに会えること、そして合鍵を持っていてもいいのだと分かったこと。つい頬が緩んでしまうのは仕方ないことだ。
赤井さんに会うことになったのだ。まだ時間はあるだろうから、一旦家に帰って準備をしよう。赤井さんの帰りが遅くなるのなら、きっと泊まることになると思うから──
◇
一度家に帰って荷物を準備したあと、食事とお風呂を済ませてから私は赤井さんの家にやってきた。あのあと送られてきた赤井さんからのメッセージに書いてあったのだ。遅くなるかもしれないから食事を済ませておいてほしいということや、お風呂は好きに使っていいこと、今日が泊まりになること。さすがにお風呂まで勝手に使うのは憚られたので自宅で済ませてきた。
もしかしたら赤井さんがもう帰ってきているかもしれないのでインターホンを鳴らしてみる。けれど応答はない。
本当に勝手に上がり込んでいいのだろうか。でも冬の冷たい空気が肌に刺さる中、ずっと外で待っているわけにもいかない。悩みに悩んだ末、私は赤井さんから受け取った鍵を使って部屋の中へと入ることにした。
「お邪魔します……」
誰もいないことは分かっていても、無言で上がり込むのは恐れ多いので小声で挨拶をする。当然、誰からの返答もなかった。
赤井さんがいないリビングはいつも以上に広く感じる。家主不在で部屋に上がるのはなんとなく落ち着かなくて、もう何度も来たことがある場所なのに妙に緊張していた。
ソファーの隅に座ってスマホを触りながら家主の帰りを待つ。赤井さんはまだ仕事中かな、早く帰ってこないかな。そんなことを思いながら待っているうちに、いつしか私は眠りに落ちていた。
PREV / NEXT