「先輩今日も残業なんですね」

 年度末の忙しい時期の定時過ぎ。飄々とした顔で私のデスクの隣に立った後輩、折笠は誰よりも早く帰り支度を済ませていた。夜になると急激に下がる気温からご自慢の綺麗な顔を守るため、高級素材のマフラーをこれでもかというくらいぐるぐるに巻いていて、その様子に思わず顔を顰めた。

「おかげさまで。というか、そのマフラーの巻き方どうにかならないの?」

 いいスーツ、いいコートを身に纏っているのに、それを台無しにするマフラーに小言を言えば、彼は肩を竦めた。

「知らないんですか?これが一番寒くないんですよ」
「……あっそう」

 それを知っていても、普通は人目を気にして少しは控えるものなのに。そう言ってもきっと彼には伝わらないんだろう。不思議な後輩に付き合っていたら貴重な時間がただ過ぎていくだけだ。

「気を付けてね、お疲れ」

 もう君とは話す気は無いよ。という意思表示を込めて、目の前の書類の山とPCの中の数字との睨めっこを再開させる。そんな私に、斜め上から視線が降り注ぐ。

「……まだ何か?」
「それ、先輩の仕事じゃないですよね」
「え?ああ、まあ、部長に押し付けられたようなもんだけどね。でも請け負った今は私の仕事だよ」
「ふーん……」

 納得がいかないと言いたげにそう呟いた彼は、再びPCに向き直った私にそれ以上何も言わず、気が付いたら姿を消していた。

「帰るなら一言くらい言いなさいよね……」

 我ながら小言が多いとは思う。しかしそれは心配ゆえでもある。折笠は、入社当時は目を引く容姿ゆえに他の社員から持て囃されていた。しかしそのマイペースさと、歯に衣着せぬ物言いに彼が浮いてしまうのにもそう時間は掛からなかった。

 当時同じチームにいた私はどうにか彼をチームに馴染ませようとあの手この手を尽くしたが、それが成功したかと聞かれると微妙と答えざるを得なかった。

 あの時世話を焼いたからなのか今は別のチームで仕事をしているのにも関わらず、折笠は何かと私に絡んでくる。仕事中に社内チャットで雑談を飛ばしてくることなんてしょっちゅうで、今朝も
『最高気温3度なんてどうなってるんですか』
『仕事しなさい』
『太陽に言ってください』
なんてやり取りをしたばっかりだ。まあ、何が言いたいかというと、私に取って彼は手はかかるが、可愛い後輩には違いないのだ。



「はー……疲れた」

 凝り固まった肩を鳴らして天井を見上げる。蛍光灯がやけに眩しくて目を細めると同時に、見知った顔が私に影を落として椅子から転げ落ちそうになる。

「折笠!?」
「お疲れ様です」

 もう帰ったと思っていたはずの人物がいて、思わず大きな声をあげてしまい慌てて口を押さえる。幸い、同じフロアにはもう残っている社員はいないらしい。

「えっ、どうしたの?帰ったんじゃないの?」
「先輩が一人じゃ寂しいと思って」
「え?」
「冗談。これどうぞ」

 その言葉と共にデスクに置かれた缶コーヒーに瞬きを繰り返す。

「え?差し入れ?折笠から?」
「他に誰がいるんですか」

 不思議そうに首を傾げた折笠は何か言いたげに私をじっと見つめた後、窓際のデスクに足を進めて椅子を引き、腰を下ろした。

「ちょっと、そこ部長の席だよ」
「ねえ先輩」
「何?」
「僕が出世したら、先輩の仕事は減りますよね」
「はぁ?」
「目指してみようかな、部長」

 背もたれを倒し天井を見つめながら椅子をくるくると回す折笠に、私は大きなため息を吐いた。

「そんな簡単になれるもんじゃないんだよ」
「僕が本気出せばあっと言う間だよ……ですよ」
「はいはい。まずはどんな時でも目上の人には敬語で話せるようになってからね」

 未だに部長の椅子で遊んでいる折笠に近付けば、椅子を回し過ぎたのか青白い顔をしていて吹き出してしまう。それに唇を尖らせた彼は、よろよろと立ち上がって再びマフラーをぐるぐるに巻き始めた。

「帰ります」
「え?ああ、お疲れ」
「お疲れ様です」

 ぺこっと音が聞こえてきそうなほどかるーい会釈をした彼は、出口付近でこちらを振り返った。

「どうしたの?」
「まだかかるんですか?」
「んー、あと30分くらいかな。とりあえず切りのいいところまで」
「そうですか」

 じゃあ、また。と再びかるーい会釈をした彼は、今度こそオフィスを後にした。何だったんだろう。そう思いながら自席に戻ってデスクの上の缶コーヒーを手に取る。それに付箋がついてることに気が付いて剥がしてみると、そこに書かれているのは間違いなく折笠の字だった。

『ちゃんと寝てください』

 そしてその文字の横に、何やら不思議なイラスト。これは……クマだろうか。ここ最近家に仕事を持ち帰る日々で寝不足が続いていて、確かに私の目に下には隈ができているけれど、彼はそれのことが言いたいのだろうか。

「いや、ダジャレかよ」

 誰もいないオフィスに小さな笑い声がほんの少し反響して、私はそれを掻き消すように、ん〜! と声を上げて伸びをした。
 
 時刻は定時から1時間半を少し過ぎたところ。まだまだ書類の山は高いけれど、今の時期あったか〜いしか売っていないはずの缶コーヒーがこんなに冷えるまで、一緒に残業してくれた可愛い後輩のために……いや、明日の私のために、私は気合を入れ直した。

「あと少し、頑張りますか!」

fin






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