頬を濡らすは雨か涙か
タイミング最悪。
ちゃんと予定を聞いてきたのに、なんでこうなってしまったんだろう。窓を叩く雨音と、微かに聞こえる万理の心臓の音を聞きながら考えた。
そうだ、全ては雨のせいだ。
今日、鍵を返すと共に万理への気持ちに蓋をするんだと、ずっと決めていた。
しかしいざ朝起きたら決心が揺らぎそうになって、うじうじしていたら昼が過ぎ、そして夕方になり、夜になった。時間が経つにつれて私の心を表すかのように、空模様は次第に曇り、おまけに雨も降り始め、気持ちはどんどん憂鬱に。
こんな事になるなら日中に行っておけばよかったと後悔しながらも、私は重い腰を上げて万理の家へ向かった。
「…さっさと済ませて帰ろ」
1人呟きながら万理の家の前でふと顔を上げる。ベランダから見る限り部屋の灯りは消えていて、万理はまだ帰ってきていないようだ。それに安心すると同時に、ベランダに洗濯物が干してあるのに気が付いた。雨脚はそこまで強くないものの、万理はいつ帰ってくるかもわからない。既に雨が降り始めてから結構な時間が経っているため、洗濯物はびしょ濡れになってしまっているのだろう。
こういうお節介なところ自分でもどうかと思うけど、放っておけない私は足早に万理の部屋に向かったのだった。
鍵を開けて部屋の中へ入って、早々に目についたゴミ袋の山と吸殻で一杯になっている灰皿を尻目に、ベランダへ出て洗濯物を取り込む。
思った通りびしょ濡れになっている洗濯物を抱えて乾燥機に突っ込んだ後、鍵と一緒にポストに入れようと思って書いてきたメモに、その辺に転がっていたペンで一言付け足す。
「これで、よし」
そう呟きながら立ち上がったと同時に、ガチャっと玄関のドアが開く音がした。やばい。と思った時にはリビングのドアが開いてて、振り返ると同時に腕を引き寄せられ、痛いくらいに抱きしめられる。
「万理…?」
無意識のうちに溢れた私の声に返事をするかのように、背中に回っている腕の力が強くなった。
タバコの匂いが鼻をくすぐり、なぜかそれだけで涙が出そうになった。それをぐっと堪えて何も言わない万理の胸を押せば、その体は意外にもすんなりと離れていった。
「奈々美、あのさ…」
「あー!勝手に上がっちゃってごめんね」
目を合わせてしまったら気持ちが揺らいでしまう気がして、俯いたまま万理の話を遮る。
何か言いたそうに私の手を握った万理の手を取って私は、これ返しにきたの。と、ポケットに入れていた合鍵をそっと握らせた。
「返すの遅くなってごめんね」
この手を離してしまったら本当に全部終わってしまう気がして、万理の手を離すのを躊躇う。それが万理に伝わってしまったのか、奈々美。と名前を呼ばれる。
「話がある」
「…私は無いよ。もう帰るね」
痛む心に気が付かないふりをして、掴んでいた万理の手をそっと離すと同時に、私は万理への気持ちに蓋をした。
万理の横を通り過ぎようとしたと同時に、待って。と再び腕を掴まれ、私は足を止める。
「あの日のこと、ずっと謝りたかった」
「…別に。私、気にしてないから」
もういい?と、腕を振り払おうと力を入れるもびくともしない。
「…離して」
「まだ、言わなきゃいけないことがある」
「聞きたくない」
これ以上万理と話してたら、折角押し込めた気持ちがまた溢れ出てしまいそうで、一刻も早く帰りたいのに、万理は私を離してくれない。
「奈々美、俺」
「聞きたくないってば!」
自分でも驚くほど大きな声が出て、はっとする。それと同時に万理の手が私の腕をそっと離した。
振り返りたい気持ちを我慢して、ごめんね。そう小さく呟き、私は足早に万理の家を後にした。
「最悪…」
傘を置いてきてしまった事へなのか、大きい声を出してしまった事へなのか、はたまた他の要因なのかわからないけれど、自然とその言葉が口から溢れた。
雨は先ほどより強くなっていて、傘をささなければびしょ濡れになってしまう。でも
「もう、なんでもいいや」
1人呟きながら雨の中駅へ向かって歩き始める。こんなに濡れてたら電車に乗れないやとか、風邪ひかないようにしなきゃとか、いろいろ考えながら歩いた。万理の事を考えないように、ただひたすら色々考えた。
それでも考えないようにすればするほど思い出してしまう。抱きしめられた時の暖かさや、鼻をくすぐるタバコの匂い。そして私の名前を呼ぶ万理の声。
「本当、最悪」
自分が傷つきたくないからと万理の話を聞かなかった事も、会いたくないと言いながら、心のどこかで自然に会える状況をいつも考えていた事も。そして、万理を好きになってしまった事も。
視界がぼやけるのは雨水が目に入ったからだと言い聞かせて、濡れる頬を無意味に拭った。
横を通り過ぎる車に軽く水をかけられようと、その車が数メートル先で止まろうと、今は気にならない。
「傘もささないでどうしたの?」
ただその車の横を通り過ぎる瞬間に、知ってる声に呼び止められたら話は別だ。
「…ユキ」
薄く笑みを浮かべた彼に、とりあえず乗りなよ。と声をかけられるも、私は首を左右に振り、いいです。と再び歩き始めようとした。
「乗らないなら万呼ぶよ」
その言葉に足を止め、振り返る。先程と打って変わって、ユキは心底楽しそうな笑みを浮かべている。ほら、どうする?とスマホをチラつかせながら首を傾げるユキに折れて、私は車の後部座席へと乗り込んだ。
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