雨にけぶる




「行くぞ、奈々美」
「あっ、はい」

引っ越し当日、仕事を終えると同時にオサムさんに声をかけられた。なぜか彼は私よりもやる気に満ちていて、引っ越しを決めてから今日まで事あるごとに引っ越しの話題を出すほどだった。

「いよいよだなー。そう言えば、小鳥遊さんには挨拶済んでるのか?」
「はい!紡ちゃんには。音晴さんとはタイミング合わなくてお会いできなかったので、後日改めてお礼に」
「そうか」

車を走らせながら投げかけられたオサムさんの言葉に、私は今朝のやりとりを思い出す。
感謝の言葉と、また改めてお礼をさせて欲しいと伝えれば紡ちゃんは、そんなのいいんですよ。と笑った後、照れ臭そうに呟いた。

『お姉ちゃんができたみたいで、本当に楽しかったです』

またお買い物行きましょう!ほんのり頬を染めながらそう言った紡ちゃんを思わず抱きしめながら、ほんの少し泣きそうになったのはここだけの秘密。
またすぐに会えるのに離れがたいと思ってしまうほどに、小鳥遊家は暖かかったのだ。

「お礼、何がいいと思います?」
「そりゃー、菓子折りだろ」
「…普通の回答だ。がっかりです」
「なんだとー?!」

ハンドルから片手を離して私の頭を撫で回すオサムさんに、やめてくださいよ!と笑いながら、お礼と言えば。と、あることを思い出す。

「そう言えば、今日環くんがお手伝いに来てくれるんです」
「へぇ?学校は?」
「終わってから来てくれるみたいで」
「そうか。あ、そう言えば。家に忘れ物しちまったんだ。お前の家行く前に寄ってもいいか?」
「勿論です。時間もまだありますし」

私の返答と共に、車は交差点を右折した。
鍵、渡してあるけど一応環くんにも連絡しておこうかな。そんな事を考えながら、私はラビチャを起動したのだった。





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ピンポーン

「ななみん来たぞー」

無機質な電子音が、マンションの廊下に響く。何度押しても姿を表さない奈々美に、環と一織は顔を見合わせた。

「居ねえのかな?」
「居ないはずがないでしょう。と言うか四葉さん、あなた鍵を預かってるんじゃないんですか?」
「あ、そうだった」

忘れてた。そう言ってカバンの中から奈々美の家の合鍵を取り出した環は、鍵を外して扉を開け、その隙間から室内を見渡した。

「ななみんー?いねーのー?」
「…本当に留守にしてるんでしょうか」
「わかんねえ。とりあえず入ってみっか」

扉を全開にして目に入った光景に、一織が顔を顰める。

「…準備、全く終わってないようですね」
「ん?あー…ほとんど捨てるって言ってたから、それでじゃねえ?ななみんー?オサムんー!」

本来ここにいるはずの2人の名前を呼びながら家の中へと歩みを進める環と打って変わって、一織は靴を揃え、おじゃまします。と呟きながら家の中へと歩みを進めた。

「おーい…って、これ懐かしい!ななみん、昔の写真飾ってくれてたんだ」

家主を探すのをやめ、嬉しそうに声を上げた環が手にしていたのは小さな写真立てだった。一織が覗き込んだその写真の中では、幼少期の奈々美と環が笑顔で並んでいる。

「施設にいた時の写真ですか?」
「そー!ななみんが施設出てく、ちょっと前に撮ったやつだったと思う」

かわいーだろ!と笑顔を浮かべていゆ環のそれは、写真の中と全く変わっていない。

「…そうですね。それはそうと、片瀬さんはどこに行ったんでしょう」
「あー、それな。ラビチャ送ってみる…って、あれ。ななみんからラビチャ来てた。『オサムさんの家に寄ってから行きます』だって」
「そうですか。なら、待つしかないですね」

ため息まじりにそう言った一織に環は、でもさ。と言葉を続ける。

「このラビチャ…」

その言葉をかき消すようにガチャっとドアが開く音が聞こえ、2人は再び顔を見合わせた。

「ななみん帰ってきたのかな?」
「おそらく」

ななみん〜?と声をかけながら玄関へと向かった環の、うわ!という声を聞き、一織は玄関へと向かう。そして目の前の光景に驚いた。

「なっ!どうしたんですか?!」
「わかんねえ!ちょっ、オサムん、大丈夫かよ?!」

環が玄関で支えていたのは、奈々美と一緒に居るはずのオサムだったのだ。
額に汗を滲ませながら肩で息をしているオサムは、環の腕を掴みながら必死の形相で声を上げた。


「奈々美が…!奈々美が消えた…!」




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