待てない君と明日の約束




「明日、日中用事ができてしまいました」

 夜、同棲中の彼女と久々に2人揃ってベッドに潜ったタイミングで、そう言えば。と切り出された話に、俺は閉じていた瞼をゆっくりと開けた。

「用事って、何の?」
「先輩に仕事関係の買い出しに付き合ってほしいと頼まれまして……」
「土曜日なのに?」
「土曜日なのに、です」
「ほーん……」

 ごめんなさい。と謝る彼女に向かい合うように体勢を変えて、許さない。の言葉の代わりに柔らかいほっぺたを摘んで伸ばす。
 明日は久々の非番だった。だから一緒に家でのんびりしようと、つい先日話したばかりなのに、なんでよりによって明日なんだろうか。明後日だったらまだ許せたというのに。それよりなにより……

「言うのが遅い」
「ほへんなはい」
「これでも、明日一緒に過ごすの楽しみにしてたんだけどねえ」
「そへは、わはひもです!」
「何言ってるんだか」

 ほっぺたから手を離して頭をぐしゃぐしゃと撫でれば、眉を下げた奈々美ちゃん。犬のように頭に耳がついていたら、完全に垂れ下がっているに違いない。その様子が酷く愛おしくて、もっといじめたくなってしまうのは自分の性格上仕方がない事だろう。

「奈々美ちゃんは、大好きな恋人よりも先輩を優先する子だったんだねえ」
「そんなことないです!私だって、本当は耀さんを優先したいです!」
「本当にそう思ってるなら断れたんじゃない?」
「それは……。私も、一回は断ったんですけど、他に頼める女子社員が居ないって言われて……」

 本当なんですよ! と必死に俺の胸に縋り付く奈々美ちゃんがかわいくて口元が緩みそうになる。しかし、彼女のとある言葉に引っかかりを覚えて、俺は顔を顰めた。

「あのさあ奈々美ちゃん、その先輩ってもしかして男?」
「え?あ、そうです」
「ほーん……彼氏との時間を割いて、他の男とデートするなんて、奈々美ちゃんはいつの間にそんな悪い子になっちゃったの?」
「えっ!?いや!デートじゃないです!本当に、ただの買い出しで……!」

 慌てて起き上がった奈々美ちゃんに続いて、俺もゆっくりと上体を起こす。そして自身の膝に頬杖を付き、下から覗き込むように、不安げに揺れている大きな瞳を見つめた。

「……耀さん、怒ってますか?」
「さて、どうでしょう?」
「本当に!本当にただの買い出しなんですよ」
「そう思ってるのは奈々美ちゃんだけかもしれないよ?」

 柔らかな頬にそっと手を添えれば、ほんの少し肩が跳ねたのがわかった。頬から首の後ろへ手を移動させて、力を入れて引き寄せる。そして彼女の耳に自分の唇が当たるか当たらないかの絶妙な距離まで近付き、いつも以上にゆっくり囁いた。

「男はみんな狼だから、奈々美ちゃんのこと食べちゃいたいって思ってるんじゃない?」
「男は、みんな」
「そう。みーんな」
「……それって、耀さんもですか?」
「んー?」
「耀さんも狼で、私のこと、その……食べちゃいたいって思ってるんですか?」

 耳元から唇を離し再び大きな瞳を見つめれば、先程までの不安げな色はどこへやら。今は何かを期待しているような瞳が、俺をじっと見上げていた。その瞳の中の期待が何かなんて聞くまでもなくて、まったく、そんな誘い文句どこで覚えてきたんだか。と、俺は心の中でため息を吐いた。

「本当、悪い子になっちゃったねえ」
「思わない、ですか?」
「奈々美ちゃんが食べてほしいなら食べてあげる。骨の髄まで、余すことなく。……どうしてほしい?」

 ほんの少しずれたら唇が触れ合う距離で問い掛ければ、奈々美ちゃんはそれを躱して俺の胸に飛び込んできた。

「……食べて、欲しいです」

 奈々美ちゃんがその言葉を言い切ると同時に、俺は彼女の首に顔を埋めて軽く吸い付く。何度も何度もそれを繰り返して、俺のモノだという印を付けた。

「耀さん、あの……」
「何?」
「チューして欲しいです」
「してるでしょ」
「口に、してくれませんか……?」
「わがままだねえ」

 首筋から唇を離し彼女に向き直れば、その目は未だに期待の色に染まっていた。俺はそんな奈々美ちゃんに笑顔を向け、艶のある唇を親指でひと撫でした後、待て。とだけ告げて布団に潜った。

「えっ……。えっ!?」
「ふあぁ……。もう遅いし、奈々美ちゃんも、明日のために早く寝なさいな」
「えっ、でも……」
「言ったでしょう?待て、って」

 まさかここで突き放されるとは思っていなかったのだろう、目を瞑っていても声色だけで彼女が戸惑っているのがわかる。
しばらく続いた沈黙を破ったのはベッドが軋む音。その音が聞こえるとほぼ同時に、腰の辺りに僅かな重みを感じた。

「耀さん、寝ちゃったんですか……?」

 まだ起きているけれど、きっとこの先起こるであろう展開のために寝たふりを続ける。そして数秒後、予想通り唇に柔らかい感触。一瞬触れて離れたその唇を追いかけて、彼女の後頭部に手を回す。何度か触れるだけのキスを繰り返したあと、奈々美ちゃんが唇を薄く開いたところで彼女の体を遠ざけた。

「はい、終わり。待て、って2回も言ったのに聞こえなかった?」
「だって耀さんが……」
「でも残念。この先は明日のお楽しみ」
「え……」
「最後までしてもらえるとでも思った?」

 俺の言葉に小さく頷いた奈々美ちゃんの頭を素直でよろしい。と頭を撫でれば、彼女は嬉しそうに笑ったあと、再び唇を寄せてきた。しかし俺はそれに答えることなく、手の平でそれを受け止める。

「この先は明日って言ったでしょう」
「ん〜!なんでですか!」

 拗ねたように声を上げた奈々美ちゃんを腰から下ろし、隣に寝転ぶようにした。素直に従った彼女の乱れた髪を整える。

「待て、いつもは聞けるのにねえ」
「私、悪い子なので待てが聞けなくなりました」
「ほーん……。俺はいい子のお願いしか聞かないよ」
「……耀さん、意地悪です」
「奈々美ちゃんはわがまま。明日、俺は奈々美ちゃんが帰ってくるのを大人しく待ってなきゃいけないのに、奈々美ちゃんのお願いだけ聞いてあげるのは不公平じゃない?」
「それはそうですけど……」

 納得がいかないと言った様子で眉間にシワを寄せて唇を尖らせる奈々美ちゃんに、随分とかわいい顔だねえ。と笑えば、彼女はべーと舌を出し背中を向けた。

「もういいです。寝ます」
「待てができて偉い偉い。明日帰って来たらちゃーんとご褒美あげようね」

 ご褒美という言葉に反応した奈々美ちゃんは、背中を向けたばかりだというのに、寝返りを打って俺を見上げた。今度は正真正銘かわいい顔をしていて、自分から告げた『待て』を撤回してしまおうかと思ってしまうほどだった。まあ、この期に及んで撤回なんてしないけれど。

「……約束ですよ」
「ん、約束。だから明日、早く帰って来ること。これも約束」

 返事の代わりに絡んだ小指に、きゅっと力を込めてどちらからともなく指を離す。そして、おやすみなさい。に同じ言葉を返しながら、幼く見える寝顔をしばらく眺め、すぐに聞こえて来た寝息をBGMに、そっと瞼を閉じたのだった。



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服部耀 一般人 恋人



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