初めては全部キミ




 カタカタとパソコンのキーボードを叩き、メールの送信ボタンを押して少し伸びをする。凝り固まった身体がほんの少しほぐれたのを感じながら、傍に置いていたスマホを手に取る。

―ごめんなさい。今日も遅くなりそうで、会えないかもしれません。

 数分前に届いた奈々美ちゃんからのLIMEに、俺は無意識のうちにため息を吐いた。

 付き合って数ヶ月の彼女と会えない日々が続いて早数週間。奈々美ちゃんも俺も仕事が忙しくて連絡も頻繁に取れない状態だ。特に彼女は新しい部署に異動になったばかりで、どうも余裕がないらしい。

「……無理してないといいんだけど」

 感情をあまり表に出さない奈々美ちゃんの事だ、疲れていても、辛いことがあっても、きっとそれを人に言ったり表に出したりはしないはずだ。
 急に彼女の事が心配になった俺は、ディスプレイの端に表示されている時刻に目をやる。ここから奈々美ちゃんの職場まで車で15分。連絡をもらってから会社を出ても、そこまで待たせる事はない。

―俺もまだ帰れなさそうだから気にしないで。

 その後に続けていた『また落ち着いたら会おう。』の文字を削除して、『仕事終わったら連絡ちょうだい。』と書き足し、俺はメッセージを送信した。

 
 気付けばパソコンの画面との睨めっこを再開させて、1時間半近くが経っていた。その間着信音は一度も鳴っていない。トーク画面を見たと同時に既読になり、続けて着信音が部屋に鳴り響いた。発信者は、奈々美ちゃんだった。

「もしもし?」
『お疲れ様です。あの、メッセージ見たんですけど』
「うん。俺はもう仕事終わるんだけど、奈々美ちゃんはどう?」
『それが、もうちょっとかかりそうで……』

 久々に聴いた奈々美ちゃんの声に疲れた心が癒されていくのを感じながら、電話の向こうが賑やかな事に気が付いて首を傾げる。

「奈々美ちゃん、今どこにいるの?」
『えっ?えっと……』

 言いづらそうに言葉を濁した奈々美ちゃんの電話口から、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。

『片瀬、2軒目……って、ごめん。電話中か』
「あっ!大丈夫です。行きます。ごめんなさい羽鳥さん、また連絡します」

 その言葉を最後に切られた電話。スマホから通話終了を知らせる電子音が聞こえて来る。俺はスマホの電源ボタンを軽く押し、大きなため息を吐いて心を落ち着けた。
 飲み会も仕事の一環だと、新しい部署の人たちとの親睦を深めるために大切な事だと、頭ではわかっていても、モヤモヤしてしまう。自分はこんなにも心の狭い男だっただろうか。そんな事を思いながら、やるせない気持ちを抱えたまま俺はパソコンを閉じて帰路に着いたのだった。



 帰宅してから約1時間後、時計が23時を回った頃、俺のスマホが再び奈々美ちゃんからの着信を知らせた。晩酌のワインを片手に通話ボタンを押し、努めて冷静な声で電話に出た。

「はい」
『あっ、羽鳥さん。さっきはごめんなさい。今帰宅したので、その、一応連絡しました』
「そう。お疲れ様」

 思った以上に素っ気なくなってしまった返事に、奈々美ちゃんが戸惑っているのを感じる。電話の向こうの彼女が必死に言葉を探しているのがわかって、俺はあえて黙った。

『明日は早く上がれると思うんです』
「そうなんだ」
『……羽鳥さん、怒ってますか?』
「ん?別に怒ってないよ」

 そう、別に怒ってはいない。怒ってはいないのだけれど、心の中のモヤモヤは大きくなる一方で、どうにも今日はいつもの自分でいられない。

『あの、羽鳥さ』
「ごめん奈々美ちゃん。俺、明日も早いからそろそろ寝るね」

 奈々美ちゃんの言葉を遮ってそう告げれば、なんとも言えない空気が俺たちの間に流れた。

『……わかりました。おやすみなさい』
「うん。おやすみ」

 また連絡するね。そう一言添えて、俺は奈々美ちゃんの返事を待たずに通話終了のボタンを押した。そろそろ寝るねなんて言ったけれど、まだまだ眠れそうになくて、俺は奈々美ちゃんに想いを馳せながら、ワインボトルを空にした。




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『また連絡するね』

 羽鳥さんからそう言われてから数日が経った。LIMEのトーク画面はあの日の通話が最後で、それ以降、彼からの連絡はない。

 あの日は久々に早く帰れる予定だった。往訪も来訪も無ければ、いつも長引く会議もなくて、だから羽鳥さんと会う約束をしていた。
 しかし、どうやら同じ部署人たちがサプライズで私の歓迎会の計画をしてくれていたようで、定時を迎えると同時に私は連行されるような形でお店へと連れて来られたのだ。

―ごめんなさい。今日も遅くなりそうで、会えないかもしれません。

 トイレの中で送ったそのLIMEに、『仕事終わったら連絡ちょうだい。』と返信が来ていたのに気が付いたのは飲み会が終わった後で、私は急いで電話を掛けたものの、大した会話はできないまま私は二次会へと向かうことになった。
 本当はすぐに帰って羽鳥さんに会いたかったけれど、私のために開いてくれた歓迎会を途中で抜けるわけにもいかず、その日帰宅したのは23時を回った頃だった。

『奈々美ちゃん、今どこにいるの?』

 そう言った羽鳥さんの声がいつもよりワントーン低くかった気がして、それが少し気になって、私は帰宅後すぐに電話を掛ける。電話越しの羽鳥さんはなんだか機嫌が悪くて、今度もろくな会話はできずに通話は終わってしまった。

 あの日、羽鳥さんは『怒ってないよ』と言っていたけれど、確かにいつもと様子が違った。

「……はぁ」

 何かメッセージを送ろうにも、何て送るべきなんだろう。ベッドの上で枕に顔を埋めながら考える。いくら考えてもいい言葉が思いつかなくて、私は過去のLIMEを遡る。そうしているうちに会いたい気持ちがどんどん膨れ上がって、なぜか無性に泣きたくなった。

「……会いたいなぁ」

 そう呟いたと同時に、私のスマホが着信を知らせる。相手は今会いたいと思っていた人物で、私は慌ててベッドの上で姿勢を正した。

「もっ、もしもし!」

 想像よりも遥かに大きい声が出て、しかもなぜか声が裏返ってしまった。電話の向こうの羽鳥さんも声をあげて笑っていて、羞恥心に襲われる。いつまでも笑っている羽鳥さんに、私は唇を尖らせた。

「……ちょっと、そんなに笑わないでください」
『あははっ、ごめんごめん。聞いたことない声だったから面白くて、つい』
「もう……。それで、こんな遅くにどうしたんですか?」

 ふう。と息を整えた羽鳥さんに用件を尋ねる。時刻はもう間も無く日付が変わる頃で、彼が何の前触れもなくこの時間に電話をして来るのは珍しかった。

『奈々美ちゃんがまだ起きててよかった。今大丈夫?』
「大丈夫ですけど……。何かあったんですか?」

 もしかして、別れ話かもしれない。なぜか不意に頭の中をそんな考えが横切った。
 羽鳥さんが元々1人の人に執着する人ではないことは分かっていた。だから彼みたいな人が私と付き合っている事が不思議でならなかったけれど、やっぱり私との関係がしんどくなってしまったのだろうか。

『急で悪いんだけど、今からちょっと外出られる?』
「え?今からですか?」
『うん。難しかったらまた今度会いに来るよ』

 会いに来る。その言葉に引っかかった私は慌ててベランダへと向かい、真下の道路へと目をやった。予想通り、そこには見覚えのある車が止まっていた。

「すぐ行きます」

 羽鳥さんの返事を聞くより先に電話を切って、部屋着から手頃な服へと慌てて着替える。ボサボサの髪を整え、すっぴんを隠すために伊達眼鏡をかけて私は急いで家を後にした。



 車が止まっていた場所へと走って行けばそこには羽鳥さんが立っていた。ひらひらと手を振っている彼にそのまま抱き着いてしまいたい気持ちをぐっと堪えて、速度を落とし、息を整える。

「走ってきてくれたの?」
「……そう、です」

 くすくすと笑いながら乱れた髪を優しく直してくれる羽鳥さん。久々に会えたことが嬉しくて、私は我慢できずに目の前の彼の胸へと飛びこんだ。

「わっ!はは、どうしたの?奈々美ちゃんからそういう事してくれるの珍しいね」

 そう言って頭を撫でてくれる羽鳥さんの背中に回した腕の力をほんの少し強くすれば、私の背中に彼の腕が回ったのがわかった。

「羽鳥さん、会いたかったです」
「……うん。俺も」
「本当は何回も連絡しようとしたんです。でも、仕事もまだバタバタしてたし、それに、メッセージも何て送ったらいいかわからなくて、それで……」

 必死に言い訳をする私の言葉に彼は、うん、うん。と優しい声で相槌を打ってくれる。そして興奮気味の私の背中を、子どもをあやすようにトントンと一定のリズムで叩きながら、羽鳥さんは呟いた。

「なんだか安心した」
「え……?」
「俺も全く一緒だったんだよ」

 かっこ悪いよね。と笑った羽鳥さんは、腕の力を緩めて私を車へとエスコートしてくれる。私が車に乗り込んだのを確認した彼は助手席のドアを閉めて運転席へと回った。

「少しドライブしない?」
「……はい」

 魅力的なお誘いにふたつ返事をすれば、彼は嬉しそうに笑ってハンドルを握った。カーステレオからかすかに流れるクラシック音楽が、車内に満ちている彼の匂いが、私の心を落ち着ける。

「あの、羽鳥さん。さっきはごめんなさい」
「ん?何が?」
「……その、急に抱き着いたりして」
「謝ることじゃないよ。すごく嬉しかった」

 運転している彼の横顔を盗み見ればその横顔は笑顔で、ほっとした。

「寧ろ謝らなきゃいけないのは俺の方だよ」
「え?」
「さっきの話の続きなんだけど、俺も奈々美ちゃんになんて連絡したらいいかわからなくて、ずっと悩んでたんだよね」
「そう、なんですか」
「うん。でも結局どうしたらいいかわからなくなって、今日会いに来ちゃった」

 赤信号で止まったタイミングでこちらを見た羽鳥さんは眉を下げて笑いながら、やっぱりかっこ悪いね。と呟いた。そんな事ないですよ。という私の言葉に、羽鳥さんはありがとう。と笑う。
 信号が青に変わり、車が再び動き始める。なんとなく窓の外を眺めれば、いつも煌びやかな街はもう寝静まっていてまるで知らない街のようだった。

「奈々美ちゃん、最後に電話した日の事覚えてる?」
「……はい」
「あの日、奈々美ちゃんがどういう理由でどこに居たのかはわかってるんだけど、なんて言うかモヤモヤしちゃって」
「モヤモヤ……」
「うん。それで、そのモヤモヤが落ち着いてから連絡しようって思ってたら、なんか連絡しづらくなっちゃったんだよね」

 今まで、羽鳥さんがこうやって自分の心境を吐露してくれる事は無くて、すごく新鮮で、私はろくな相槌も打てないまま彼の話に耳を傾ける。

「奈々美ちゃんも知ってると思うけど、俺今までろくな恋愛したことないから、いざこういう時どうしたらいいかわからないんだ。そもそも、こんな気持ち初めてで……」
「それって」
「うん?」
「それって、その……」

 今から自分が言おうとしている言葉に恥ずかしさを覚えて、急に尻すぼみになる。そんな私の言葉を、羽鳥さんは黙って待ってくれていて、私は意を決して口を開いた。

「その、羽鳥さんが私のこと、すごく好きって、ことですか……?」
「えっ?」
「いや、あの、なんでもないです。忘れてください」

 あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆って俯いたと同時に、羽鳥さんの笑い声が車内に響く。

「そうだね、そういうことになるね」
「……ごめんなさい。調子に乗りました」
「謝ることじゃないよ。すごくしっくりきた」

 はい、到着。行き先を決めずに走っていたはずの車が、どこかに到着したらしい。顔を上げればそこは海沿いの公園だった。
 運転席から降りた羽鳥さんが助手席側に回りドアを開けてくれる。車を降りればすぐに繋がれた手に、きゅっと力を込めれば羽鳥さんは嬉しそうに笑って、少し歩こうか。と、歩みを進めた。

「俺、自分の気持ちが自分でわからないことって初めてじゃないんだけど」
「……そうなんですか?」
「うん。でも、初めても奈々美ちゃん相手にだった」

 どういうことかわかる? と歩みを止めた羽鳥さんが私を見つめて、首を傾げた。一つの答えが思い浮かんだけれど、あまりにも自惚れで、恥ずかしくて、とてもじゃないけれど口にできない。

「わからないです」
「本当に?じゃあ、教えてあげる」

 そう言って羽鳥さんは両手で私の頬を優しく包んでそっと唇にキスをした。

「俺が心から好きだと思ったのは、奈々美ちゃんが初めてだってことだよ」

 照れたように笑った羽鳥さんがとても愛おしくて、胸がきゅんと音を立てる。好きという気持ちが溢れて、私は彼の襟元を引いてキスをした。

「……私も、一つ教えてあげます」
「……何を?」
「私が心から好きになったのも、羽鳥さんが初めてですよ」






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