愛しさだけでは満たせない
目が覚めて一番に目に飛び込んできたのは知らない天井だった。肌寒さを感じて布団の中を覗けば案の定生まれたままの姿で、私は慌てて布団を戻した。恐る恐る視線を隣に向けるもそこには誰も居なくて、思わず安堵の息を吐く。遠くの方でシャワーの音が聞こえて急いで体を起こし、ベッドの下に散らばってる衣類を身につける。寄り添うように脱ぎ捨てられたスーツとエメラルドグリーンのネクタイは見なかったことにして、私はそそくさとその場を後にした。
「夢でありますように、夢でありますように……」
夜風に体を震わせながら、家までの道中で何度も祈る。しかし、朝が来ても残っている下半身の違和感が私の失態を物語っていた。私は昨晩、あろう事か片思いしている人と酔った勢いで寝てしまったのだ。
酒は飲んでも飲まれるな。成人した時周りの大人から散々言われた言葉の大切さを、この歳になって痛感するとは思ってもみなかった。
あの日の事はよく覚えている。小鳥遊事務所の方々に誘われて行った食事会という名の親睦会で、勧められるがままに酒を飲んで潰れた。と言っても、人様に迷惑をかけるような粗相はしていない。ただただ眠気に勝てずに、その場で眠りについてしまったのだ。そして問題はその後だった。
『家近いので、俺が送って行きますよ』
ぼーっとした頭に響く心地よい声。その声の持ち主に身を任せてタクシーに乗り込んだが最後。私は今世紀最大の過ちを起こしてしまった。記憶が無くなっていた方がマシだと思った。喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、あの時の記憶は数日経った今でも全部残っている。
自分が発した誘いの言葉も、許可なく重ねた唇の感触も、全部、全部、覚えている。
『無かったことにはできないけど、いいんですか?』
彼に言われた言葉が、頭の中で再生された。それに素直に頷いたのも、誘ったのも私なのに、冷静になった彼に会うのが怖くて逃げてしまったのだ。
「……もう本当あり得ない」
「何が?」
未だ鮮明に思い出す事ができる己の失態を忘れようと、休憩も取らずに必死にパソコンの画面と睨めっこをしている私のデスクに缶コーヒーが置かれた。聞き慣れた声に顔を上げれば弊社の看板アイドルRe:valeの千さんが立っていて、彼の手にも缶コーヒーが握られている。さっきまで明るかったはずなのに、窓の外の街はオレンジから黒に変わり始めていた。
「……お疲れ様です」
「お疲れ様」
「コーヒーありがとうございます。千さん、今日オフでしたよね?」
「オフだったよ。ついさっき曲が完成したからモモに聴いてもらいたくて会いにきたんだ」
「そうなんですね。百さんならついさっきテレビ局を出たみたいですよ。18時過ぎには戻ってくると思います」
岡崎さんから連絡がありました。と付け加えれば彼は、へえ。とだけ呟いて隣のデスクの椅子を引き腰を下ろした。
「で?何かあったの?」
「え?あ、いえ別に……。データ入力を間違えただけです」
「そう。少し休憩したら?最近働き詰めじゃない?」
「大丈夫です」
仕事してると余計なこと考えなくて済むので。という言葉は飲み込んで、再びパソコンの画面と睨めっこを始めた私の右半身に刺さる千さんの視線。それを無視をしていると、彼が徐に私の首に触れた。視線は無視できても流石にこれは無視できない。
「ちょっ、何ですかいきなり」
「奈々美ちゃんって、彼氏いるんだね。独占欲強いタイプ?」
「え?いや、彼氏なんか居ませんけど」
急に何を言い出すんだ。と眉を顰めれば、千さんは、あぁなるほど。という意味深な呟きと共に肩をすくめた。
「ちょっと前から気になってたんだよね。見せつけてるのかと思ってたけど違うんだ」
「だから、何の話ですか?」
訳がわからないと首を傾げる私と打って変わって、自身の首筋をトントンと叩いた千さん。何を言いたいのかいまいち分からず、私はカバンから鏡を取り出して彼が触れた辺りを見た。それと同時に、彼の言葉の意味がわかって慌てて髪を下ろす。基本的に仕事中は髪を結んでいて、それはあの日以降も変わらない。私は常にコレを人前に晒していたのかと絶望すると共に、ここ数日現場に行く機会がなくてよかったと心底思った。
「働き詰めなのはそれのせい?」
「……まあ、そう、ですね」
「話くらいなら聞くけど」
「……お気持ちだけいただいておきます」
と言うか、あなたにだけは言えません。と心の中で呟いて、私はコーヒーの缶を手に取る。休憩したら気分が変わる。このコーヒーを飲んだらあの日の事は綺麗さっぱり忘れられるに違いない。そんな自己暗示をしながら缶に口をつけたタイミングで、今一番聞きたくない名前を出されて暗示は無駄なものとなった。
「そう言えば、万が連絡取りたいって言ってたよ」
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「はぁ……」
事務所の屋上でコーヒーの缶を傾けながら、既読にならないラビチャのトーク画面を眺めてため息を吐く。やってしまった。未だにあの日の事を思い出しては後悔の念に駆られる。
数日前、飲み会で酔い潰れてしまった奈々美さんを送るのは家が近い自分が適任だと、そう思ったから自ら提案した。そこに1割の下心があって何か過ちが起きかけたとしても、自分の正義感とか責任感とか、そんなんがフルで働いて自制ができる自信があった。しかし、あの日の俺には1割の下心だけではなくこの世で一番厄介な『お酒の力』というやつも加わっていたわけで、そうなる事が決まっていたかの如く自然に誘惑に負けたのだ。
「いい歳して何してんだか……」
頭を抱えて目を瞑れば、脳裏に浮かぶのは白いシーツの上で乱れる彼女の姿だった。
お互いへの好意は1mmも無い、今だけの割り切った関係。そう思っていたし、俺はそれを望んでいた。しかしその望みは彼女の一言で叶わぬものとなった。
『大神さん、好き、です』
彼女のうわ言は、まるで媚薬のように一瞬で俺の体を熱くさせた。何度も繰り返されるその言葉に、まるで思春期の少年のようなときめきと途方もない愛おしさを感じて、次第に彼女に落ちていくのがわかった。このままじゃまずいと思った時にはもう手遅れで、果てる彼女の耳元で『俺も好きです』と愛を囁いていた。
猛る自信が完全に落ち着いたのは、日付が変わって1時間が経った頃。力尽きたように寝息を立てている彼女の首筋にそっと唇を寄せたのもその時間だった。他意はない。ただ彼女を繋ぎ止めるためだけに、俺はその無防備な首筋に印をつけた。
奈々美さんが起きたらきちんと謝って、それからきちんと話をしよう。シャワーを浴びて冷静になってきた頭で、俺はこれから先のことを考えた。しかし、意を決して浴室から出た時には、彼女が寝ていたはずのベッドはもぬけの殻だった。罪悪感や後悔と一緒に底知れぬ寂しさを感じたのを、今でもよく覚えている。
「どうするかなぁ……」
ポケットから取り出した小ぶりなピアスを眺めながらぽつりと呟く。あの日彼女が去った後、部屋に残されていたのはこのピアスだけだった。恐らく何かの弾みで片方だけ落ちてしまったんだろう。
俺と顔を合わせないで帰ったということは、奈々美さんはきっとあの日の事を無かったことにしたいんだと思う。仕事柄、今後一生会わないなんて無理な事は彼女もわかっているはずなのに。
あの夜、俺は確かに彼女との割り切った関係を望んでいた。一夜の過ちはすべてお酒のせいで、お互いが一言『何も覚えてない』と言えば、簡単に無かったことにできるはずだった。でも、俺は彼女と一つになる直前に呪いをかけたのだ。『無かったことにはできないけど、いいんですか?』と。
奈々美さんにはあの日から何度も連絡をしているけれど、ラビチャの返信は愚か電話にも出てくれない日々が続いている。確実に連絡を取れる方法があるにはあるが、プライベートの話をするために仕事を利用するわけにもいかなくて、恥を偲んで千に俺が連絡を取りたがっている事を彼女に伝えてもらった。それから数日経った今でも、連絡はまだ無い。
「会いに行くしか無いか」
ぽつりと呟いて腕時計で時間を確認する。彼女のスケジュールはわからないけれど、留守だったら待てば良いだけだ。善は急げとコーヒーを飲み干して踵を返す。
こんなに必死になってるのは、彼女が仕事の関係者だからなんだろうと初めはそう思っていた。関係が拗れて仕事に支障をきたしたくないとか、周りにバレたら示しがつかないとか、理由はいくらでも出てくるしそれも本心だ。しかしそれより何より、今はただ彼女に会いたい気持ちが強くて、なりふり構っていられない。
「本当、いい歳して何してんだか」
乗り込んだ車のバックミラーに映った自分に投げかける。余裕のないその顔を鼻で笑いながら彼女とのラビチャを開くと、そこにはつい数分前にはついていなかった『既読』の文字が。
-今から会いに行きます。
返事はまだないにも関わらず、一方的に送りつけたメッセージ。それにも間髪入れずに既読がついた。
ああ、今を逃したらもうチャンスはないかもしれない。大袈裟じゃなくて本気でそう思った俺は、早る気持ちを何とか落ち着けながらアクセルを踏み込んだ。
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