甘え下手




「バンちゃんバンちゃん!」
「ん?って、うわっ!」

 環くんに名前を呼ばれ、振り返るとほぼ同時に抱きつかれた。ほぼタックルのようなそのハグを受け止め、何か良いことがあったのかと尋ねれば、彼は元気よくこう言った。

「今日、ハグの日らしーよ!」






「ってわけで、はい」
「は?」

 夕飯を食べ終えて、ソファに並んでのんびり過ごす時間。他愛のない話をしている最中、今日あった事を思い出した。その事を奈々美に話しながら両手を広げれば、彼女は案の定眉間に皺を寄せる。

「はい。って何」
「何って、わかるだろ?ハグだよ、ハグ」
「……え、しろって事?」

 笑顔で頷いた俺に一言、やだ。と吐き捨ててソファの端に寄った奈々美。そんな彼女を追いかけるように、俺は距離を詰める。

「ちょっと、来ないでよ」
「ハグって癒されるんだって」
「何それ」
「環くんが言ってた。だから環くんは俺にハグしてくれたらしい」
「……へえ」

 俺の言いたい事が伝わったのか、奈々美は俺に向き直ってゆっくり俺の背中に腕を回し、胸に顔を埋めた。

「疲れてるならそう言えばいいのに。甘えるの下手すぎ」
「あんまり自覚ないんだよな」
「働きすぎて鈍感になってるんじゃない?」
「んー……」

 嬉しい事に最近は仕事が忙しくて、実はこうして奈々美とゆっくり過ごすのも久々だったりする。自分の仕事的に忙しいのは当たり前だし、俺自身それは苦ではないから疲れていないというのも強がりではない。かと言って鈍感になってるわけでも無いと思う。だからきっと今の俺の状態は……

「疲れてると言うか、奈々美不足だったのかも。今めちゃくちゃ癒されてる」
「……あっそ」
「あ、照れた?」
「別に照れてませんけどっ!」

 その言葉と共に勢いよく上がった奈々美の顔はほんのり赤くて、久々に見たその表情に笑みが溢れる。

「なんかおまえ、会わないうちにかわいくなったな」
「はっ、はぁっ!?」
「あっ、元々かわいいから、もっとかわいくなった。が正しいか」
「急に何っ!?もう十分でしょ、ハグ終わり!」

 ほんのり赤かった顔が、今では熱でもあるんじゃないかというほどに真っ赤になる。俺の胸を押して腕の中から逃げようとする奈々美をじっと見つめれば、無駄だと悟ったのか大人しくなった。
 うん、やっぱりかわいいな。そう思った時にはもう体が勝手に動いていて、引き結ばれている唇にそっと自分のそれを重ねた。

「……万理ってちゃっかりしてるよね」
「減るもんじゃないしいいだろ?それに、キスにもハグと同じ癒しの効果があるらしいよ」
「何それ。今考えたでしょ」
「本当だって。ネットで見た」
「どうだか」
「あっ、信じてないな?」

 呆れたような顔で肩を竦めた奈々美は、再び俺の胸に顔を埋めて深く息を吐いた。

「まあでも、ハグが癒やされるのは本当かも」
「え?」
「今日仕事バタバタでちょっと疲れてたんだよね。でも、今癒されてるって感じする。ちょっとタバコ臭いけど」
「本数減らします……」
「早死にしなきゃ別にいいよ。万理の匂いって感じがして好きだし」

 奈々美がこうやって甘えてくるのは珍しくて、本当に疲れてたんだな。と思ったら、今日こうやって2人の時間が作れてよかった。そんな事を考えながら、小さな背中を子どもをあやすように軽く叩いていると、ねえ万理。と、名前を呼ばれる。

「ん?」
「私も万理が不足してたのかも」
「そう」
「……本当かどうか、試してみる?」
「何を?」
「……キスが、ハグと同じくらい癒やされるか」
「えっ!」
「ぷっ、冗談でーす」

 不意をつかれて緩んだ俺の腕から難なく逃げ出した奈々美は、いたずらっ子のような笑顔を浮かべている。

「期待した?」
「おまえな……。するに決まってるだろ」
「がっかりしすぎ」

 くすくすと楽しそうに笑って、じゃっ、お風呂入ってきまーす。と呑気に浴室に向かった奈々美には、俺がキスの先も期待してた事なんてきっとお見通しなんだろう。あー、久しぶりに奈々美に触れられると思ったのに。

「弄ばれた気分だ……」

 虚しく響いた言葉をかき消すように、ドアが開く音が聞こえた。何か忘れ物だろうかと何の気無しにドアの方に顔を向ければ、奈々美が顔だけを覗かせてこちらを見ていた。

「どうした?」
「……お風呂から上がったら、試してもいいよ」
「えっ」
「でも、キスまでだから!それ以上はダメだからね!」

 でも、今度は冗談じゃないよ。最後に付け加えたその言葉と共に、ドアの向こうに姿を消した奈々美。彼女が勢い良く閉めたドアの音が部屋に、柄にもなくドキドキと早鳴る心臓の音が体内に響く。なんだ、今の、かわいすぎる。処理能力が著しく低下した脳で、何度もその言葉を繰り返す。

「はぁ……我慢できる気がしない……」

 本当、弄ばれてる気分だ。ため息を吐いて、この悶々とした気持ちを何とか落ち着かせようとしてもうまくいかない。それならいっそ、と俺は立ち上がり、奈々美に怒られるのを覚悟で浴室へと向かうのだった。



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