敵わない




 じーという音が聞こえてきそうなほど俺を見つめている大きな瞳。それは確かに俺を見ているのに一向に目が合う気配がない。長いまつ毛が不定期に上下に動くのを、俺はただ眺めていた。

「おい」
「何?トラくん」

 暇を持て余し声をかける。ようやく目が合ったかと思ったのも束の間、その視線は再び俺の目の少し上……額へとゆっくり移動した。

「何がそんなに気になる?」
「え?」
「さっきから俺の額ばっかり見てるだろ」
「あ、えっとね、さっきまでこの雑誌を読んでて」
「雑誌?」

 奈々美が自分の鞄から取り出したのは、つい先日行われたライブのレポートが掲載されている雑誌で、そこにはパフォーマンス中の俺たちの写真も載っていた。

「それがどうしたんだ」
「このトラくん、いつもと雰囲気が違くてかっこいいなぁって」

 俺の写真を指差しながら、えへへ。と照れくさそうに笑った奈々美。俺がかっこいいなんて今更何を言ってるんだと内心ため息を吐きながら、写真の中の自分のヘアスタイルを見て納得した。

「ああ、前髪を分けてるからな」

どうやら、こいつは俺の額ではなく前髪を見ていたらしい。

「初めて見た。トラくん、自分ではやらないの?」
「まあ、できないことはないがわざわざやらないな。セットが面倒だ」
「セット……」

 徐に俺の前髪に手を伸ばして髪を分けた奈々美は、本当だこれじゃまた違う雰囲気になる。と小さく笑った。

「かっこいいのに、ライブに行かないと見られないのね」
「ライブで毎回これをやるとも限らないしな」
「そっかぁ……」

 そう呟いて残念そうに雑誌の写真を眺めている奈々美。その表情になんだかこちらが悪いことをしている気分になって、俺は大きめのため息を吐いた後その小さな頭を少し乱暴に撫でた。そして、ちょっと待ってろ。と言葉を残して洗面所へと足を向けた。


 洗面台の前に立ち、前髪を軽く濡らしてドライヤーで乾かす。棚から整髪料を取り出し、そしてそこでふと我に帰る。

「……何をやってるんだ?俺は」

 かっこいいと言われたからだろうか。いや、そんな言葉は言われ慣れている。じゃあなんで俺は今、出かける予定もないのに髪をセットしてるんだ? 自問自答して頭の中に浮かんでくるのは奈々美の残念そうな表情で、あれに動かされたのかと思ったら何だか悔しかった。

「はっ、馬鹿馬鹿しい」

 やめだやめだと肩をすくませ、ドライヤーと整髪料を片付け始める。それと同時にリビングからスリッパの足音が近付いて来た。

「ねえトラくん、この方ってFSCの……あっ!」

 雑誌を抱えたまま洗面所へやって来た奈々美は、目敏く俺が手にしているものを見つけて目を輝かせた。

「トラくん、髪をセットするの!?」
「え、あ、いや……棚を整理してただけだ」
「すごい!ねえ、ここで見ててもいい?邪魔しないから、ね?」
「別にいいが……って、いや違う。俺は棚を整理してただけで……おい、話を聞け!」

 るんるんと鼻歌が聞こえて来そうなほど上機嫌で隣に並び、鏡の中の俺を見つめている奈々美にはもう俺の声なんかもう耳に入っていないらしい。俺がいつまでも動かないのを不思議に思ったのか、鏡から目を離し俺を見上げて首を傾げた。

「しないの……?」
「……くそっ!」

 すればいいんだろ! と内心自棄になりながら前髪をセットしていく。すると、カシャッという機械音とやけに楽しそうな声が聞こえてきた。

「……おい、何してるんだ?」
「え?ふふっ、トラくん撮影会」

 鏡の中と隣の俺へ交互にスマホを向け、カシャカシャと機械音を鳴らしながら、楽しそうにそう言った奈々美に頭を抱える。

「はぁ……。これでもアイドルだからな、写真は高くつくぞ。覚えておけよ」

 あれこれ言うのも面倒で適当に冗談を言えば、奈々美は眉を下げておろおろし始めた。

「そ、そうだよね。カード払いでいいですか?それとも小切手?あ、事務所にお支払いする感じかな……」
「冗談だ」

 間に受けるな。と軽く頭を叩けば奈々美はくすくすと笑いながら、再び楽しそうにシャッターを切る。その音をBGMにセットを進め、こんなもんか。と向き直るとほぼ同時に、わぁ……! と感嘆の声が耳に届いた。

「かっこいい……!トラくん、セット上手なのね」
「ふっ、まあな」
「トラくん、お写真よろしいですか?」
「もう何枚も撮ってるだろ」

 何を言ってるんだ。と顔を顰めると、奈々美は頭を横に振りくるっと俺に背を向けた。

「一緒に撮りたくて」
「高いぞ?」
「ふふっ、またその冗談?んー……全然入らない」

 一生懸命腕を伸ばして俺と自分を画角に収めようとしている奈々美。身長差を考えればどう頑張っても収まるはずがないのに、必死になっている姿がかわいらしくてつい口元が緩む。

「トラくん、少しだけしゃがんでもらえますか?」
「ああ……こうか?」

 細い腰に腕を回し抱き寄せ、半歩分空いていた隙間をゼロにした俺は、そのまま奈々美の肩に顎を乗せた。一気に近付いた事に驚いたのかそれともはたまた他の理由か、奈々美は大袈裟に肩を跳ねさせた。

「とっ、トラくん」
「なんだ?」
「……近い」
「そんな事でいちいち照れるな」

 固くなっている体に口角を上げて、ぎゅっと握りしめられているスマホを奈々美の手から奪い取る。起動されたままのインカメに映ったのは、真っ赤な顔をして目を泳がせている奈々美と、心底楽しそうな自分の表情だった。

「ほら、撮るんだろ?」
「……やっぱりいい!」
「遠慮するなよ。撮るぞ」

 待っての声を無視してシャッターを切れば、不満気な声が聞こえてきた。

「待ってって言ったのに」
「いい写真じゃないか」
「確かにトラくんはかっこいいけど、私はかわいくないよ」
「何言ってる。あんたもかわいいだろ」

 口を衝いて出た言葉にはっとして顔を背ける。しかし、そんな事をしても当然無意味。奈々美は嬉しそうに、そっか。と呟いて、さっきまでのしょぼくれた顔はどこへやら、花が舞いそうなほど上機嫌で写真を眺めていた。
 またこいつにペースを乱された。その事実が無性に悔しくて、俺はアホ面でスマホを眺めている女の手からそれを取り上げた。そして数分後、ショックのあまり口数が減った奈々美の機嫌を取るために再び写真を撮る事になるなんて未来を知る由もなく、今し方撮った写真のデータを削除したのだった。



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