午前一時




「やばっ!」

 キーボードを叩く手を止めて時計を見て思わず声を漏らす。時刻は日付が変わって既に1時間が経とうとしていて、私は傍に置いていたスマホを慌てて手に取った。

──お誕生日おめでとう!

 今日一番に伝えたかった言葉を電波に乗せて急いで彼に届ける。その後にほんの少しの言い訳を添えて。なかなか既読にならないトーク画面を見て数十秒後、こんな勢い任せのおめでとうじゃなくて、もっとちゃんとした文章で送りたかったと後悔した。もう寝ちゃったかな。それとも仕事中かな。頭の中でいろいろ考えながら、そう言えば。と0時にかけたはずのアラームを確認する。

「あ……」

 設定したアラームの一覧に表示されているのは0時ではなくて12時。つまりこのスマホが音楽を奏でるのは太陽が登った後、時計の針が再び12の前で重なる時だった。普段からよくするこのミスを、よりによって今日このタイミングでしてしまった自分にため息を吐く。LIMEはまだ既読にならない。
 伝えたかった言葉は一応送ったし、こんな時間まで仕事をしていてへとへとだ。今日はもう横になろう。そう思って寝る支度を始めて数分後、スマホのバイブが私を呼んだ。画面には最愛の彼の名前が表示されている。

「もしもし」
『もしもし、今大丈夫?』

 鼓膜を揺らすのはもちろん大好きな声。鏡に映った自分の前髪が乱れていて、それがなんだか恥ずかしくて、お互いの姿は見えていないのに私はそっと前髪を直した。

「うん。大丈夫だよ」
『よかった。少し話さない?と言っても、この後海外の取引先と打ち合わせがあるからあんまり長くは話せないんだけど』

 どうしても君の声が聞きたくて。そう言った羽鳥の声はいつもよりも少し低い。もしかしたらかなり疲れてるのかもしれない。最近仕事が忙しいというのは聞いていて、それを理由になかなか会えない日々が続いているのも確かだ。

「羽鳥、大丈夫?」
『うん。大丈夫だよ』

 何が? と聞き返してこないあたり、私が言いたいことは伝わっているらしい。

『奈々美ちゃんこそ、大丈夫?こんな遅くまで仕事なんて珍しいんじゃない?』
「連休明けで忙しくて明日までの仕事に手が回らなかっただけなの。もうほぼ終わってるし、明日は定時で上がる予定だから大丈夫だよ」

 私の言葉を聞いて、そっか。と呟いた羽鳥の声色は安堵の色に染まっていて、たったそれだけのことなのに愛されてると感じて、すこしくすぐったい気持ちになった。数秒の沈黙の後、名前を呼ばれる。

『やっぱり大丈夫じゃないって言ったら、今日俺と会ってくれる?』
「え?勿論!でも、忙しいから今年は誕生日当日には会えそうにないって、この前言ってなかった?」
『そのはずだったんだけど、いろいろと予定が変わりそうで。でもまだ確定じゃないから絶対会えるって断言もできないし、もし会えても数十分かもしれないんだけど』

 でも、やっぱり君に会いたくて。少し寂しそうで、それでいて甘い彼の呟きに胸がきゅっと締め付けられる。

「私も羽鳥に会いたい。もし会えそうだったら連絡して」
『ありがとう。そうするよ』
「うん。でも無理はしないでよ」

 話が一段落ついたタイミングで羽鳥が、あっ。と声を漏らした。どうやらタイムリミットが近づいてきているようだ。

『残念だけど、そろそろ切るね』
「うん。打ち合わせが順調に進むように祈ってる」
『ありがとう』

 それじゃあ。と言って電話を切ろうとする羽鳥を慌てて呼び止める。今日を迎えて一番に伝えたかったあの言葉を、まだ私は口にしていない。

『あっ!待って羽鳥』
「どうしたの?」
『お誕生日おめでとう』

 生まれてきてくれてありがとう。羽鳥に出会えて私は幸せだよ。そんな、普段では照れて言えないような言葉にありったけの愛を込めて届ける。再び訪れた数秒の沈黙が怖くて彼の名前を呼べば、電話口から深く息を吐く音が聞こえた。

『今、君が隣にいなくてよかったよ』
「え?どういうこと……?私なんか変なこと言った?」
『ううん。言ってないよ。今君が隣にいたら君のことが好きって気持ちが溢れて、きっと無理させちゃうから』
「無理……?」

 何で? と聞くより先に彼の言いたいことがわかった私は思わず口を噤む。そんな私の様子を察したのか羽鳥はくすくすと笑い声を溢した後、決めた。と呟いた。

『今日、何が何でも君に会いに行くよ』
「でも折角時間ができるなら少しでも休んだ方が……」
『今の俺は仕事で疲れてるんじゃなくて、奈々美ちゃんが不足してるだけなのかもしれないでしょ?どっちなのか、会って確かめさせてよ。……もしかして、奈々美ちゃん本当は俺に会いたくなかったりする?』
「そんなことないよ!私も本当に会いたい」
『じゃあ決まり。また連絡するね。今夜も寒いから、暖かくして寝るんだよ』
「ありがとう。羽鳥もね」
『うん。おやすみ』

 どちらからともなく切った電話。訪れた静寂に一抹の寂しさを感じて、それを誤魔化すようにそそくさと寝る支度を再開する。彼がプレゼントしてくれたルームウェアに身を包みドレッサーで髪を梳かしていると、数年前彼と行った旅行先で一緒に作った香水が目に入った。

 それは、羽鳥をイメージしてオーダーした香水だった。男性をイメージして作ったから当然男性向きの香りに仕上がったそれは、私が普段使うことはない。当時もそれを理由に彼が私をイメージして作った香水と交換しようと提案したけれど、なぜか断られたのをよく覚えている。それでもこの香水の量が徐々に減っているのは、羽鳥が私の家に泊まる時必ずこの香水を使うからだ。
 それを思い出した私はほぼ無意識にその香水を手に取った。蓋を開けた瓶を手首に当てて少し傾ければ嗅ぎ慣れた香りが鼻を掠める。ふと、ここにいないはずの彼を感じて思わず振り返るけれど当然そこには誰もいなくて、ひとりを自覚した瞬間会いたい気持ちが膨れ上がっていく。

 馬鹿なことをしたな。そう思いながらも毛布に包まって手首を鼻先に近付ければ、彼に抱きしめられているような錯覚を覚える。それがとても心地よくて、今夜はぐっすり眠れそうだと緩む口元をそのままに私は瞼を閉じたのだった。



back


novel top/site top