悪い大人




※公式家族構成丸無視の家族設定です



 好きな人が自分を好きになってくれることって、本当にあるんだろうか。

「万理さん」

 誰も居なくなった事務所で、もうとっくに定時を過ぎているのき未だにPCのキーボードを叩いている大好きな人の名前を呼ぶ。

「どうしたの?」

 彼は手を止めて、隣の席に座っている私を見やる。好きです。と、溢しそうになって慌てて口を噤んだ。

「えっと……まだ帰らないんですか?」
「うん。切りのいいところまでやっていこうと思って」

 そう言って再びPCに視線を向けた万理さんは、1時間前もそう言ってたし、きっと1時間後にもそう言うんだと思う。机に腕を乗せ、その上に体を預けて万理さんを見つめる。長い髪はサラサラだし、腕まくりをしているシャツから見えている腕は意外と男らしい。優しい目元に大人の余裕も感じるし、この人は何でこんなにかっこいいんだろう。

「奈々美ちゃんは?まだ帰らないの?」

 突然話を振られて内心焦る。本来ここに居て良いはずのない人間が居るのだから、快く思われてないのかもしれない。そう思ったら、万理さんの方を見るのがほんの少し怖くて、腕に顔を埋めた。

「……今日は、家に帰っても1人なので」
「そっか。社長と紡さんはパーティーだもんね。でも、そろそろ終わる時間だと思うよ?」

 ちらりと横目で彼を見れば、文字を打ち込む手は止めず、視線も画面を見たままだ。つい数十秒前までは目が合うのが怖いと思っていたのに、やっぱりこっちを向いてほしい気持ちが勝って、私は再び彼の名前を呼んだ。

「万理さん」
「ん?」

 彼は相変わらず、こちらを見ない。

「……万理さんって、彼女いるんですか?」

 何の脈絡もない私の質問に、万理さんの手が止まる。そして何かを考えるような素振りを見せた後、体をほんの少しこちらに向けた。頬杖をついて私を見る万理さんは、口角を上げ少しいじわるそうな顔をしていて、初めて見るその表情に心臓がドキッと音を鳴らした。

「どうだと思う?」
「えっ?……10人くらい居そう」
「ぷっ!ははっ、俺ってそんな男に見えるの?」
「見え……なくはないです」

 だってかっこいいから。と続ける事はできなくて、ゆっくりと視線を逸らす。訪れた静寂に気まずさを感じていたら、少し休憩しようかな。と万理さんが伸びをした。そして徐に立ち上がり車のキーを手に取った。どこかに行くのかと、私は慌てて机に預けたままだった体を起こす。

「どこか行くんですか?」
「うん。奈々美ちゃんの家」
「え?」
「送って行くよ」
「いや、でも、今帰っても」
「スマホ、何回か鳴ってたよ?社長じゃない?」

 そう言われて自分のスマホの存在を思い出す。鞄の中からそれを取り出せば、数件の不在着信。そのほとんどがパパで、残りはお姉ちゃんからだった。

「全然気付かなかった……」
「帰ったら奈々美ちゃんが居なかったから、2人も心配してるんじゃない?ほら、帰ろ?」

 傍に置いていた私の鞄を持って出口に向かう万理さんに、まだ帰りたくない。なんて、言う度胸は私には勿論あるはずも無くて、重い腰を上げて広い背中の後ろに続いた。



 運転をする万理さんの横顔は、PCに向かっている時と雰囲気が違う。どこか楽しそうで、薄ら流れている音楽に合わせて時折鼻歌なんかも聞こえたりもする。

「あっ、この曲」

 前の曲が終わり、新たにスピーカーから流れてきた曲には聞き覚えがある。思わず反応した私に、万理さんが驚いたような声を上げた。

「知ってるの?」
「はい。最近SNSで流行ってて」
「そうなの?結構昔の曲なのに」
「最近多いんですよ。流行ってると思って調べたら、昔の曲だった!みたいなの。この曲も、この前家で歌ってたらパパがびっくりしてました」
「ははっ。確かに、この曲は社長の年代の曲だもんね」

 他にも今はこれが流行ってるとか、ちょっと前はこれが流行ってたとか、そんな話をしていたらあっという間に見覚えのある景色になってきて、2人きりの時間に終わりが近付いてる事に気付いた。

「万理さん」
「ん?」
「あの、えっと」

 信号が赤になって車がゆっくりと停車する。言葉の続きを待つ万理さんが、私を見ているのがわかって顔を上げる。そして私は意を決して言葉を紡いだ。

「……まだ、帰りたくないです」

 万理さんは瞬きを繰り返したあと、優しく笑って私の頭を撫でた。それと同時に信号が青に変わって車が再び動き出す。万理さんは何も言ってくれなくて、車内は何とも言えない空気に包まれた。言わなきゃよかったと窓に頭を預けて外の景色を見てため息を吐く。──次に車が停車したのは、私の家の前だった。

「はい、到着」
「……帰りたくないって、言ったのに」

 気が付いたら口を突いて出ていた、拗ねた子どものような言葉に、万理さんはくすくすと笑った。私にとっては全然笑い事じゃないのに、悪い大人だ。

「奈々美ちゃんは悪い子だね」

 私が万理さんを悪い大人と思うと同時に、万理さんは私を悪い子だと思っていたらしい。

「悪い子なんかじゃないです」
「ううん。悪い子だよ」

 そう言って万理さんは私の胸元のボルドーのリボンを指で揺らした。

「これ着てる子に、大人は手を出したくても出せないのに」

 どこまで本気なのかわからないけど、その言葉は私の心を動かすには十分過ぎて、最低でもあと1年は心の内に秘めておこうと決めていた言葉を音にする。

「好きです」

 リボンから離れて行く万理さんの手を握り、もう何年も前に芽生えた恋心を、彼の目をまっすぐ見て伝える。口から心臓が飛び出そうなほどドキドキしてて、顔も熱があるんじゃないかってくらい熱い。

「ありがとう」

 その言葉と共に解かれた手と、優しい表情で言われた『ありがとう』の言葉に全てが詰まっていて、途端に泣きそうになる。ショックよりも何よりも、期待した自分が馬鹿で恥ずかしい。

「っ……!送っていただいてありがとうございました!おやすみなさいっ!」
「うん。おやすみ」

 ヤケクソになって勢いよく車から降りる私を万理さんが引き止めるはずもなくて、視界が歪むほどに溜まった涙が溢れる。玄関を潜ってバタバタと自室へと向かう最中、お姉ちゃんの声が聞こえた気がするけどそれどころじゃない。

「万理さんのバカっ……!」

 部屋に入るや否や、大好きな人への精一杯の悪態と共に首元のリボンを壁に投げつけてその場に崩れ落ちる。彼は本当に悪い大人だ。

「……早く大人になりたい」

 姿見に映った自分があまりにも惨めで、思わずもう1人の自分に手を伸ばす。ああ、あと1年我慢すれば、もしかしたら結果は違ったかもしれないのに。これだけが理由じゃないことなんかわかっているけれど、頭の中をたらればが埋め尽くす。あと1年しか着れないんだと寂しく思っていたブレザーと、膝より少し短いプリーツスカートが途端に憎たらしくなって、私は全てを脱ぎ捨てた。

 ああ、好きな人が自分を好きになってくれることなんて、本当にあるんだろうか。



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