今はまだ




 年が変わる少し前から、次の年のカレンダーを意味もなく捲っては、何度も2月で手を止めて14日の曜日を確認した。今年の2月14日は金曜日。
思いを寄せている彼からのお誘いは、いつも決まって金曜日の夜だった。だから当たり前のように会えるものだと思っていた。

「えっ、夜遅くまで予定があるんですか……?」
「そう。まだ確定じゃないんだけどね。海外の友人が日本に来るみたいで、案内を頼まれてて」
「そう、なんですか」

 すごいですね。とか、どこの方なんですか? とか、いくらでも話題は広げられるはずなのに、気の利いた言葉が出てこない。
 予定が入っているかもと、考えなかったわけではないけれど、彼からのお誘いを今か今かと待ち続けては、我慢ができずに自分から誘い、挙げ句の果てに期待通りの展開を得られなかった。その事に対してショックと言うか、恥ずかしいと言うか、一言で表すには難しい感情に苛まれて、私は目の前のカクテルグラスを傾けた。隣から感じる視線には、気付かないふりをする。

「じゃあ、お誕生日のお祝いはまた別の日にさせてくださいね」

 取り繕うようにそして口早に、乱れてもいない前髪を整えながらそう言えば、彼は少しの沈黙の後小さく息を吐いた。

「やっぱり、断ろうかな」
「えっ!?」

 予想外の言葉に思わず顔を上げたら、思ったよりも近い距離に大谷さんがいた。甘い瞳とばちっと目が合う。

「でも、断ったらその方が困っちゃいますよ」
「大丈夫。彼女、日本に知り合い沢山いるから」
「かの、じょ……」

 『彼女』そのワードに、グラスを撫でていた指が思わず止まる。勝手に相手の方は男性だと思っていた。そっか、女性との約束だったのか。断るとか断らないとか、そういう事よりもそっちの方が気になってしまう。本当に仕事でのお付き合いしかないのかな。その人、大谷さんに気があるんじゃないのかな。そんな事を考えては、気持ちがどんどん落ちていくのを感じた。胸に秘めてるモヤモヤを見透かされそうで、私は慌てて視線を手元に戻す。

 そんな私とは打って変わって、隣からはくすくすと楽しそうな笑い声が聞こえる。笑われてるのがなんだか癪で、体ごと大谷さんに向き直ると、彼はこの上ないくらい優しい目で私を見つめていた。ただそれだけなのに、鼓動がほんの少し、速くなる。

「奈々美ちゃんって、本当に素直だよね。考えてる事がすぐ顔に出る」
「……それ、大谷さん以外に、言われた事ないです」
「本当に?嬉しいなぁ」
「何が嬉しいんですか」
「だって、奈々美ちゃんが素直で可愛いってことは、まだ俺しか知らないって事でしょ?」

 そう言って大谷さんは私の手からグラスを抜き取り、そっとカウンターに置いた。そしてそのままの流れで私の両手を大きな手で包んで、親指で優しく撫でる。その動きが少しくすぐったくて、このシチュエーションが少し恥ずかしくて、ちらりと大谷さんを見れば、彼はまた嬉しそうに笑った。

「ははっ、くすぐったいんだ?」
「……そんな事ないです」
「そっか」

 大谷さんが私の反応を見て楽しんでるのは明白だった。でも、その手を振り払うことを勿体無いと思ってしまう自分もいて、私は男性にしては細くて長い綺麗な指にされるがままになる。指先から伝わる熱に、また、鼓動が速くなった。

「ずっと悩んでたんだよね」
「何をですか?」
「彼女からのお誘いを受けるかどうか」

 あ、そうだ、まだその話、終わってないんだった。鼓動が少し、平常運転に戻る。

「……受けた方がいいですよ」
「実は決めてた事があって」
「決めてた事?」
「そう。奈々美ちゃんからお誘いがあったら断ろうって決めてた」

 親指の動きを止めて、今度は指と指を絡め始めた大谷さん。突然のことに驚いて反射的に引こうとした手を、彼の手が優しく引き止めた。

「ずっと待ってたんだよ、奈々美ちゃんからのお誘い。勿論、向こうにも返事をしなくちゃいけないから、自分の中で期限は決めてたけど」
「ずるいです」
「うん、ごめんね。君にはなんだか意地悪したくなっちゃうんだ」

 なんでだろうね。と優しく笑った大谷さんの瞳から私は目が離せなくなった。
 本当にずるい人だと思う。私がどんな思いで大谷さんと会ってるかなんて、彼はもう絶対わかってるのに、思わせぶりな態度でこうやって私の心をかき乱す。

「……本当に断るんですか?」
「うん。俺と会ってくれる?」
「そんなの、決まってるじゃないですか」

 嬉しい気持ちを心の中で噛み締めていると、大谷さんはやっぱりそれもわかってしまうのか、笑いながら私の頬に手を添えた。添えられた掌から伝わる熱が心地よくて、縋るように顔を預ければ彼の目がより一層優しくなる。

「そうだよね、俺も嬉しい」

 嬉しいなんて、私、一言も言ってないのに。ああ、やっぱりこの人は全部わかってるんだなって思ったら、なんだか切なさで心臓がきゅっと締め付けられた。






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「2月14日、お時間ありますか?」


 心待ちにしていた奈々美ちゃんからのお誘いには、絶対に二つ返事をするつもりだった。でも、ほんの少し意地悪したい気持ちが芽生えたのは、普段あまり表情が変わらない彼女のいろんな顔を見たかったから。

「うーん……。その日、遅くまで予定が入りそうなんだよね」

 そう告げた時の彼女の表情は、一瞬時が止まったかのように固まっていた。事情を話せば、段々とショックと羞恥心が混ざったかのような表情を浮かべて、いつもより勢いよくグラスを傾けた。
 海外の友人から声がかかっているのも、奈々美ちゃんからのお誘いがなければ受けるつもりでいたのも事実だ。でも、彼女からお誘いがあった今、そっちに行く選択肢は俺の中にはもうないのに、そんな事を知らない可哀想な彼女がかわいくてため息が出る。

「やっぱり、断ろうかな」

 さも、今決めましたかのようにそう言えば、驚きと喜びをごちゃ混ぜにした大きな瞳と目が合った。瞳の奥がキラキラしていて、期待してるのがすぐにわかった。
 確かに表情はあまり変わらないけれど、素直でわかりやすい奈々美ちゃん。そんな彼女といる方が、露骨に媚を売ってくる女の子よりも一緒にいて楽しいと言う事に気が付いたのは、割と最近だったりもする。

「俺のこと好きなのに、頑張って隠そうとしてるのがかわいいんだよね』

 いつだったか神楽にそう言った時、彼がものすごく嫌そうな顔をして「ほんっと悪趣味」とだけ言われたのを昨日のことのように思い出す。
 でも、本当にかわいいと思うんだ。相手が女性だってわかってショックを受けちゃうのも、俺に手を握られて恥ずかしいけど、離すのを勿体無いと思ってされるがままになってるのも、そして、俺の誕生日を当日祝えるのが嬉しいのにそれを隠そうとしてるのも。全部全部かわいい。



「だからって、弄ぶのとかありえないんだけど」

 げんなり。そんな言葉が似合う表情で俺を見る神楽。その横で槙が何を考えてるかいまいち読めない表情を浮かべていた。

「弄んでないよ。かわいがってるだけ」
「ほんっと悪趣味」
「それって俺が?彼女が?」
「は?どっちもに決まってるでしょ」

 特大のため息を吐いた神楽は槙に同意を求める。槙はと言うと、俺をじっと見て何か言いたそうに自身の前髪を指で撫でた。

「どうかした?」
「いや、珍しいなって思って」
「珍しい?」
「羽鳥が浮かれてるの、珍しいだろ」
「浮かれてる……?」

 浮かれてると言う自覚はなかった。確かに、誕生日まで後少しだなとか、当日どんなふうにお祝いしてくれるんだろうとか、そんな事を考える時間は増えたけれど……。

「そっか、俺浮かれてるのか」

 自覚した途端、自然と口角が上がって胸がほんのり暖かくなる。初めての感覚に少し戸惑うけど、嫌な気持ちは全くない。

「……気持ち悪」
「え?神楽飲みすぎた?」
「そう言う意味じゃないから!」

 きゃんきゃんと吠える神楽を他所に、槙がまた何か言いたそうに俺を見ているけれど、今度はそれに気付かないふりをして、桧山遅いね。なんて話題を逸らすのだった。


 そこから誕生日までは早かった。得意先の受付で奈々美ちゃんに会う度に、もう少しだね。楽しみにしてるよ。なんて声をかけては、彼女の同僚に噛みつかれる。そんな日々を繰り返していたら、文字通りあっという間だった。

 それと同じくらい、俺の誕生日当日、奈々美ちゃんがお酒に飲まれてしまうのもあっという間だった。

「大谷さんって、まつ毛長いですよねぇ」

 いつもは絶対に近付いてくれないような距離で、彼女はまじまじと俺の顔を眺めている。その瞳はキラキラと輝いていて、普段よりも子どもっぽい雰囲気の彼女に胸がときめいた。

 美味しいディナーに舌鼓を打ちながら、いつもより早いペースでお酒を楽しんだ彼女は、食事を終える頃には完全に出来上がってしまっていた。そして、あろうことか「私のお家に来ませんか?」なんて普段では絶対にしないであろうお誘いをしてきた。
勿論、断る理由なんかあるはずもなくて、タクシーに乗って早々にやってきた奈々美ちゃんの家で、彼女は飽きもせずただひたすらに俺の顔を眺め続けている。

「羨ましいなぁ」
「君だって、十分長いよ?」
「これは、マスカラしてるからですよ!」

 ほら! と目を瞑って、ソファに座っている俺に半ば乗り上げるような状態で顔を近付けてくる奈々美ちゃんが、あまりにも無防備で心配になった。彼女の同僚が口酸っぱく「絶対に飲ませすぎないでくださいよ!」と言っていた意味がようやくわかった。

「うん、そうだね。ほら、少しお水飲もう?」
「お酒がいいですぅ。大谷さんもワイン飲みますか?」
「お水飲んだらね?」
「はーい!」

 手渡したグラスを素直に受け取って、ごくごくと喉を鳴らして水を飲む彼女は、水を飲み切った後満足したように俺の胸に頭を預けた。

「お水おいしかったです」
「それはよかった」

 よしよし。と頭を撫でれば、気を良くした奈々美ちゃんは俺の腰に腕を回して軽く抱きついてくる。彼女は酔うと俺以外にもこう言うことするのかな。なんて考えたらそれは当然面白くなくて、2人きりの空間なのに、誰かに見せつけるように彼女の腰に手を回して抱き寄せた。

「ふふっ、私、大谷さんの匂い、好きです」
「好きなのは匂いだけ?」
「顔も好きですよぉ」
「他には?」

 耳元に唇を寄せて、囁くように問いかける。身じろぎして俺を見上げた奈々美ちゃんの頬が赤いのは、お酒のせいなのか、それとも別の理由があるのか。そんな事考えなくてもわかるのに、そんなことでも考えてないと、理性的でいられない。もしかしたら、俺もかなり酔ってるのかもしれない。

「大谷さんは」
「ん?」
「……大谷さんは、私が大谷さんのこと、どう思ってるか知りたいですか?」

 俺の顔色を窺っている奈々美ちゃんの言葉に素直に頷けば、彼女はゆっくりと体を起こし、俺の膝の上に向かい合うようにして跨って首に腕を回した。そして、俺の耳元に唇を寄せる。耳たぶに柔らかい唇が触れて、柄にもなく緊張した。

「本当に、知りたいですか?」
「うん。教えて?」
「ふふっ、どうしようかなぁ!」

 くすくすと笑う彼女はぎゅっと俺に抱きついて、うーん。としばらく悩んだ後、腕の力を緩めて再び俺の耳元に唇を寄せた。


「まだ、ひみつです」


 そう囁いて俺の耳にキスをした彼女は、鼻の頭が触れ合いそうなほどの距離で俺の目を見つめて、にっこりと楽しそうに微笑んだ。

「(あ、弄ばれてる)」

 初めての感覚に今度は心臓がどくりと大きな音を鳴らした。それに呼応するように、ソファの横に置いていた荷物が音を立てて倒れる。奈々美ちゃんからもらったブランド物の袋から小箱が転がって、もらったプレゼントのことを思い出した。誕生日を祝ってもらうのも、プレゼントをもらうのも、勿論すごく嬉しいけど、どんなプレゼントより今この胸をいっぱいにしている気持ちの方が、勝るに違いない。

 耳元で聞こえる規則正しい寝息をBGMに、今日くらいは許して欲しいと、彼女の唇の端に、自分のそれをそっと重ねたのだった。





2025.2.14
Happy Birthday HATORI.O



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