蓋を開ける
「人を好きになった事がないって、本当なの?」
十さんに言われた言葉に、私は驚いて目を見開いた。八乙女さんから聞いたって言ってたけど、私はいつその事を彼に打ち明けたんだろう。
いくら記憶を遡っても答えは出てこなかった。
「本当ですよ」
別に、知られたからと言って何かあるわけじゃ無い。素直に認めてグラスを傾けると、氷がカランと音を立てた。
「そう、なんだ」
「はい。人を好きになりたいと思えないんです」
「それは…」
そこで口を噤んだ十さんの目が、どうして?と私に問いかける。何も答えずにただ微笑む私に、十さんが何か言いかけようとしたそのタイミングで、個室の襖が開いて追加のドリンクが運ばれてきた。
この手の話になるなら、もう少し強めのお酒を頼めば良かったなんて、心の中で思いながら、マドラーでグラスの底に溜まったリキュールを混ぜる。
訪れた沈黙を破ったのは十さんの声だった。
「好きって、よくわかんないな」
「えっ?」
「奈々美ちゃん、この前そう言ってたよね」
「聞いてたんですか」
なんか恥ずかしいですね。と言えば、たまたま聞こえちゃっただよ。と、眉を下げた十さんが、俺はさ、と話を続けた。
「人を好きになった事がない奈々美ちゃんが、"好き"について考えるなんて、きっと何きっかけがあったんだろうなって、なんとなく思ったんだ」
きっかけ。そう言われて思い浮かんだ環くんの顔をかき消すように、もう十分に混ざっているお酒を、再びマドラーで混ぜる。無言は肯定なんてよく言ったもので、言い訳を探してるうちに十さんが再び口を開いた。
「悩んでるなら話してみてよ」
「なっ、悩んでなんかないですよ!」
本当に、全然!大丈夫です!と慌てて笑顔を作るけれど、十さんは真剣な表情で私をじっと見ていて、私は逃げるように目を伏せる。
「…本当は悩んでます」
「なら」
「でも、楽しいお話じゃないですし、長くなっちゃうかもしれないから、だから…」
「奈々美ちゃん」
言い訳を探して逃げようとする私の名前を、十さんが優しく呼んだ。その声に顔を上げれば、その表情はとても優しくて、この人になら話してもいいかもしれないなんて、なんとなく思ってしまった。
「…人を好きになれなくなったきっかけは、自分でもわかってるんです」
「…うん」
「その話をするには、私の生い立ちをお話しする必要があるんですけど、本当に長くなっちゃうかと」
「大丈夫だよ」
だって明日はオフじゃないか。そう言ってグラスを片手に笑顔を向けてくれる十さんに、そうですね。と笑った後、私は心を落ち着かせるために、深呼吸をした。
「私、小さい頃母親に捨てられたんです」
心の奥底にしまってある箱の蓋を、ゆっくりと開けていく。
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