蒙昧な世界
きっかけはふわりと柔らかな、ほんの小さな温もり。それは無に沈んでいた私を優しく揺り起こし、真っ暗な深い深い海の底から導かれ、抱き上げられたような心地だった。
はっ、と大きく呼吸をした時。まるで初めて息をしたような気分だった。けれどこの世に生まれ落ちたというよりは、沈められた水中から浮かび上がったような。久方ぶりの呼吸、そんな感覚。
「…………あ……?」
「…………」
重い重い瞼をなんとかゆるゆると持ち上げれば、光の眩しさに目が眩んだ。細めたままの瞳で周りを見やれば、どうにもどこかに横たわっているらしかった。
そのまま何となしにぼやけた視線を巡らせていると、自身のすぐ傍らでこちらを覗き込んでいる人物がいたことに今更気付いて少し驚く。とはいえ体の気怠さが勝り、ろくにリアクションもとれなかったけれど。
それはそれとして、目前の男性は自身以上に驚いているように思えた。瞠目したまま私を見つめるその人は、信じられないとでも言いたげな顔をしていたからだ。
「…………ちょっと、誰かおる?」
「はーい、どうかされ……え、えぇ!?」
「卯ノ花隊長、呼んできてくれへん? 急ぎで」
「は、はい! 隊長、隊長ー!!」
目前の人が私から顔を背けるようにして何か言えば、返事をした別の誰かが近付いてくる気配がして。けれどその誰かは叫ぶが早いか、バタバタと忙しなく走り去ってしまった。
残された銀髪の男性は、一度息を吐き出すとまた私の方へ振り返る。けれど浮かぶ表情にはわずかに戸惑うような色こそあれ、先程真っ直ぐ視線をぶつけてきた瞳はもう見えなかった。どちらが素であるのかはわからないが、少なくとももう瞳の奥を窺い知ることはできない。
それが無性に心細さを煽り、その反動のようになにもわからない現状への疑問が内から溢れ出た。
今はいつで、ここはどこで、何をしているの。そして、
「……ぁ、……っ、ぁ…………」
貴方は誰?
必死に問いかけようとしたけれど、それは叶わなかった。言葉に迷ったのではない。喉がはりつきでもしてしまったように、声そのものが掠れて、どうにもまともに発することができなかった。
焦りながら乾いた唇をパクパクとさせていると、不意に男がふっと笑った。
「なんにも心配せんでええよ、大丈夫やから」
「……?」
「ボクがおるから、大丈夫」
彼の浮かべたその笑みの意味は、わからなかった。ろくに知らない人のそれは、慈しみにも哀れみにも見えて、ぼやけた頭で考えるには難しすぎた。
けれど伸ばされた手に髪を優しく撫でられると、そんなことが全部どうでもよくなるぐらいに安心してしまって。ああ、そういえばいつも誰かにこうされるのが好きだったな、なんて朧気に思い返した。
「失礼します」
「あぁ、卯ノ花隊長」
「市丸隊長、すみませんが……」
軽やかなノックの後に静やかに現れたその人は、穏やかで、それでいてよく通る声をしていた。
部屋に入って来た女性に促され、市丸隊長と呼ばれた男性が椅子から立ちあがろうとする。
「……ん?」
「あら」
「っ、ぁ……」
けれどその動きが、途中で止まった。というより私が、止めてしまった。
彼の手が自身の頭から離れた途端、途方も無い寂しさに襲われて、思わずその羽織へ指を伸ばしてしまったのだ。二人は揃ってキョトンとした顔で羽織を掴む手を見て、腕の主を確かめるように視線で辿り、それから改めて私の顔をじっと見て。そうして、くすくすと笑った。
「そない焦らんでも、どこも行かへんよ」
「すみません名字さん、少し様子を見させてもらうだけですから」
「どこにも逃げたりせんから、今は離そか?」
「っ……!」
まるきり子供を宥めるように言われ、今更ながら込み上げてきた恥ずかしさにハッとした。慌てて手を引っ込めると、視線から隠れるように布団を目蓋より上まで引っ張り上げる。
今の今までは冷たく強張っていた体が、羞恥心のお かげか一気に熱くなった気がした。
「あーあ、隠れてしもた」
「市丸隊長、そんな風に言うと彼女が余計に潜ってしまいますよ」
「そらすんません。ほら名前、出といで?」
優しく促され、無為に反抗するのは諦める。ここで意固地になっても意味がないどころか迷惑をかけるだけだろう。
そろりと顔を出した私の方へ、女性が歩み寄ってくる。艷やかな黒髪を胸の前で三編みに結った美しいその人は、私を安心させるように微笑んだ。見覚えこそないものの、その優しげな面持ちに少しほっとする。
僅かながら肩の力が抜けた私と対象的に、目前の人は気を抜いた様子はなく、壊れ物を扱うような丁重さで診察を始めてくれた。
卯ノ花烈と名乗ったその人の質問に、はじめは首を振ることでなんとか意思表示をしていた。だがそれだけでは早々に限界が来てしまう。
一時はどうしたものかとも思ったが、卯ノ花さんが根気よく付き合ってくれたおかげで、少しならばなんとか話せる状態にまでこぎ着けることができた。つっかえながら必死に言葉を紡ぐ私に、ゆっくりでかまいませんよと彼女は微笑む。
慈愛という言葉に形があるのならば、こういう姿をしているのかもしれない、そんな馬鹿げたことさえ考えた。
「名字さん、お疲れ様でした。起きたばかりなのに無理をさせましたね」
「……終わり、ですか?」
「はい。その上で改めてご説明させていただきます」
「……?」
卯ノ花さんが、目を伏せる。少し言いよどむような気配。けれど次の瞬間には、彼女は真っ直ぐに迷いのない瞳で私を見つめた。
「名字さん、貴方は長い間眠られていたのです」
「そう、なんですか。どれぐらい……」
「おおよそですが、数十年です」
「…………え?」
「……我々死神にとっても、決して短くはない時間でしょう。お体の衰弱や声が発しにくかったのもそれが原因です」
卯ノ花さんは、ある種淡々と診察結果を告げる。一見冷淡なようにも思えたが、おかげでそれが冗談でなく真実なのだと私にも理解できた。
とはいえそれでも信じ難く、どこか縋るように壁際の市丸さんの方を見る。しかし彼は困ったように笑うと、一度だけ首を縦に振った。
「わた、し……は」
「はい」
「どうしてそんなに、眠って……いたんですか」
「とある事件に巻き込まれて、重傷を負われたのです」
「事件……」
「…………貴方にとって非常に衝撃の強い、不幸な出来事だったのでしょう。そのせいで貴方の記憶は、酷く綻んでいます」
「きお、……え?」
「有り体に言うと、記憶障害を起こされています」
がつん、と頭を強く殴られた気がした。
記憶障害、とはどういうことだろう。いわゆる記憶喪失というやつか。でもそんな、まさか。そんなこと、やすやすと起こり得るものなの?
ぐるぐると、思考が混乱しながら、回る。
「全てではありません、でも名字さんは確実にあらゆる記憶を欠落されている」
「そん、そんなこと、あるわけ」
「現に、私の事もお忘れでした」
「……! お、お知り合いだったんですか……?」
「親しい間柄、と呼ぶほどではなくとも互いを見知ってはおりましたよ」
「……あなた、も?」
「…………ボクとは、それなりに仲良うしとったよ?」
困ったように言われてしまっては、もう何も言えなかった。どれだけ記憶を辿ろうとしても、まるで覚えがなかったから。
わけもわからず、閉じ込められたような気分だった。何もない場所でどこに触れればいいのか、そもそも手を伸ばせばいいのか、そうして何を掴めばいいのか。何もかもわからないまま、呆けてただ立ちすくむことしかできない。そんな閉塞感と無力感。
思考だけが、空虚にぐるぐると回り続ける。
「事件の事を、教えてもらうことはできますか……?」
「……それはできません。少なくとも、いまは」
「……だめ、ですか」
「先程申し上げましたように、貴方には相当ショックな出来事だったのです。心身が深く深く傷付き、数十年も眠り続けてしまうほどに」
「……」
「無理に思い起こすのは、危険です」
口を開いたものの、何も言うことはできなかった。反論は勿論のこと、理解を伝えることすら。
脳内にあるのはただただ、疑問の渦だけ。一体私に何があったというのか。それほどまでに追い詰められるような、何が。
卯ノ花さんの言う通りきっと今は、まだ考えない方がいいのだろうとは思う。けれどそんな簡単にわりきれるわけない。嫌でも、思考は巡ってしまう。
世界が狭まる。全ての音が遠退いて褪せていく。
何があった、何を見た、何を聞いた?
じくじくずきずきと這い出るように頭が痛みだした矢先。不意に視界が何かに覆われる。それがあまりに突然だったせいで、驚いた拍子に思わず思考が途切れた。
「あかん、言うたやろ」
自身の目を覆うそれが、人の手だという事に気付いたのは声をかけられてからだった。筋張った指はひっそりと冷ややかで、けれどそれが心地良い。
「……ごめん、なさい」
「今日はもう、難しい事考えんのおしまいにしとき。それでええですやろ、卯ノ花隊長」
「ええ、是非そうなさってください」
二人とも、浮かべる表情は笑顔の形をしているのに。そこには何故か反論を一切許さないとでも言うような圧があって。
私は大人しく肯定の言葉を返す他なかった。
▽
ゆらめく、ただひとりで、闇の中。
周囲は真っ黒で何もなく音さえ聞こえず、そんな中で立っているのか浮いているのかさえわからない。心地良さはなく、体は気怠く重い。意識も明瞭とは言い難かった。
状況は何一つわからない。けれどそのまま漫然と揺蕩うがままにしていると、不意に何かが浮かび上がる。切り取られたように四角い、見覚えのあるような、ないような景色。それはスクリーン越しに見ているような質感だった。
誰かが映る。誰かの声がする。
その姿に懐かしいなと思う、思うのに、誰かわからない。思い出したいのに映像は荒く乱れだし、不快なノイズと共にインクを散らすように黒く汚れていく。だんだんと塗り潰されていくそこへ手を伸ばしても、ただ手が汚れるばかりで何一つ抗えず、遠ざかるその人には届かない。
そしてまた、ひとり取り残される。
虚脱感にまみれながら見下ろした自身の手は、真っ赤に汚れていて。それは、それはたしかに、
「っ――!!」
息が詰まるような感覚に、目を見開く。悲鳴は、ほとんど音にはならなかった。
灯りの消えた薄暗い室内、柔い布団の感覚と、汗ばんだ体。思い出したように呼吸をすれば、それは酷く乱れていた。
「ゆ、め……?」
あれもこれも得体のしれない光景だったが、その不可解さも夢であるなら納得がいく。それでも感じてしまう疲労感に、知らずしらずのうちに溜息が漏れていた。
「……夢も、記憶と関係してるのかな」
そう思考を巡らせかけて、不意にあの人の言葉を思い出す。
『今日はもう、難しい事考えんのおしまいにしとき』
診察を終えてから再び眠りに落ちるまで、ずっと傍にいてくれた人。あれから何の言葉を交わしたわけでもないが、現状への心細さを覚えていた私は僅かながら救われたような心地だった。けれどまだ、まともに名前も聞けてない。
「(あぁでもたしか……市丸隊長って、呼ばれてたような……)」
私は彼のなんなのだろう。私達はどんな関係で、どんな話をしていたんだろう?
そんな答えの返らない疑問ばかりが浮かんで、消えていく。
けれどそれも、最後は全て睡魔にかき消されていった。
:23.4.23
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