未だ自立もままならず


何十年、と続いたらしい眠りから目覚めて、どれほど経ったろうか。日常を過ごす上では明瞭な頭と裏腹に、身体は未だ本調子に程遠い。少し動くだけでとんでもない疲労感に襲われて、運動量にとても見合わない時間を寝こけてしまう事も少なくない有様だ。
けれどそれは、まだ受け入れられる。動きも話もせず眠り続けていた身体なのだ、回復に時間をとられるのはある程度仕方ないと納得できていた。
気にかかるのは唯一つ、失ってしまった記憶のことだけ。

無理に思い返そうとしてはいけない。いずれきっと、自然と思い出せる日も来るだろう。
診察の折に触れて、諭すように言う卯ノ花隊長の言葉を理解はしているつもりだ。心を守るために他ならない自身の身体がそうしているのなら、無理にこじ開けるようなマネは恐ろしく危険なのだろう。理屈はわかっている。
でもどうしても、気付けば求めてしまっている自分がいた。

霞がかった記憶の中。大切なものが、そこにあった。ような、気がする。何の確信もないけれど、でもきっと。
思い出したい。取り戻したい。大切だったのなら、せめて形がなくても。

行き場のない焦りとがらんどうの心が生む寂寥は、息が詰まる。地上にいるのにこんなにも息苦しいなんて、陸に打ち上げられた魚かと自嘲する。それもこれも何一つ意味がないなんて知っているのに。
吐き出すことも飲み下す事もできない感情が喉奥で行き詰まって、それに押し出されたように不意に涙がほろと落ちた。

「あれ」
「っ、あ」

開け放たれたままの扉、そこで揺れる目隠しの布をのれんのように手で除けたその人は、私を見るなり少し驚いたような顔をした。
あぁ、まるで落涙を待っていたかのような、なんという間の悪さ。
完全に気が抜けていたせいで、近付いてくる人の気配にもロクに気付かなかった。

泣き顔をばっちり見られた、間違いない。今更隠しても手遅れなのはわかりきっていたが、それでも咄嗟に顔を逸らした。

「どしたん、泣いて」
「……」

隊長のみが身に纏うことを許された白い羽織を揺らめかせながら、断りなく無遠慮に室内へ入ってくるその人は市丸隊長だ。私が目覚めたあの日、あの瞬間、傍にいてくれた人。

けれど彼と私の関係は、いまだによくわからないままだ。以前から親交があったらしいが依然私は何も思い出せていないし、彼も教えてくれない。
それでも時間の隙間を見つけては病室へ足繁く訪れ、いつも優しい言葉をかけてくれる。気にかけてもらえるのは素直に有り難いし、嬉しい。

「怖い夢でも見たん? それとも何か悲しいことでもあった?」
「いえ……そういうわけでも、ないんですけど……」
「じゃあ、心細なった?」

心細い。たしかに、その言葉は今の私にしっくりきた。腑に落ちて素直に頷けば、市丸隊長は笑みを浮かべながら私の寝台に腰掛ける。
まだ慣れない距離の近さに緊張している私をよそに、隊長は顔色一つ変えなかった。

「そらまぁ不安にもなるわな、こんな状況やし」
「……すみません」
「別に謝ることやないて。わけもわからんままで、それでも復帰に向けて毎日リハビリ励んでるって聞いてんで」
「そんな別に大した事では……」
「頑張ってて、偉いなぁ」

ぽんと頭に乗せられた手が、まるで子供でもあやすみたいに撫でてくれる。そんな幼い歳でもないのにな。なんて思う傍らで、胸の奥がぎゅっと締め付けられながらも、どこか温かくなったような気がした。

「ありがとう、ございます」

以前の自分がどんな交友関係を築いていたのかはわからない。でも今の私は、恐ろしく孤独だった。
誰も、見舞いには来ない。言伝や手紙一つさえ、ない。
卯ノ花隊長をはじめとする四番隊の人達は、私を凄く気にかけてくれている。でもそれはあくまでも彼らの役割、職務だからであって親しみからではない。もちろん、十分有り難いことに違いはないが。
でも、贅沢な話ではあるのだけれど、もしかすると。義務ではない、純粋な他者との触れ合いを、私は知らずしらず求めてしまっているのかもしれない。

そしてそんな心の拠り所は、いま、目の前のこの人しかいないのだ。
だから彼の一挙一動で、大きく感情が振れてしまう。孤独感も相まってきっと必要以上に、相手の意図する以上に、感じ入ってしまう。そしてそのまま、どうしたって冷静ではいられなくなる。

「っ……」
「あぁ、そないに強く噛んだら唇切れてまうやん」
「すみっ……ませ……」
「ボクの前でぐらいなんも気にせんと泣いてええよ。言いたいことも、全部言うたらええから」

労るような穏やかな声音と共に頭を緩く撫でる手の優しさに、次から次から涙が溢れ出して止まらない。あまりに情けなく面倒な姿を晒してしまっているのが申し訳ないし、不甲斐ないと思う。なのにどうしたって、すぐには落ち着けそうにない。

「わ、たし……どうしても、記憶を、思い出したいんです。思い出さなくちゃって、おもって」
「うん」
「でもなにも、まったく、わからなくて、どうしたらいいかも、わからなくて」
「……そうかぁ」

促されるまま、嗚咽混じりになりながら、それでもなんとか言葉を紡いでいく。今言いたいこと、思っていること。素直にというよりは、単にだだ漏れているだけかもしれないけれど。
それでも市丸隊長は、嫌な顔一つしないで聞いてくれている。それがどうしようもなく、嬉しかった。

「ほんとは、思い出すのも怖い、し。不安だし、でも寂しくて」
「怖いんなら、いっそ思い出さんでもええんとちゃう」
「…………え?」

どうして?

「記憶なくしてまうぐらい辛かったんやろ。でも起った事はもう何十年も前に全部、終わってしもてる。思い出した所で今更どうにもならへん」
「それは、そうかも……しれないですけど」
「せやのに無理して昔を思い出そうと躍起になるより、これからの事に目を向けた方が建設的やろ」

な、と言いながら隊長が目元を拭ってくれる。
なんて、優しい人なんだろう。私に何の見返りを求める様子もなく、また私自身何を返せるわけでもないだろうに、それでもただただ私に優しさばかりをくれる。ガタガタの情緒で、突然泣き出すような面倒くさい奴を包むように受け入れてくれる人なんて、きっとそうそういない。

「そない辛そうな姿、ボクもあんまり見たないし」
「……すみません」
「謝らんでええて。ぜーんぶボクの勝手な気持ちやから」
「そんな……色々気にかけていただいて、ありがとうございます」
「別にお礼言われるほどの事でもあらへんよ。好きでやってることやし」

でも私にはそれが時々、本当に不思議で。
この人の無償の優しさは誰にでも与えられるものなのか、それとも。

「……あの、隊長」
「ん?」

それとも私だけになのか。なんて。
さすがに自意識過剰が、過ぎるだろうか。

「…………」
「どないしたん」

貴方と私は、どんな関係だったのでしょうか。
私にとっての貴方は、貴方にとっての私は。

「…………私、もっと頑張ります。リハビリ」

聞きたかった。でも、聞けなかった。

きっと教えてはくれないだろうと思ったのもあるけれど、それ以上に聞く勇気がなかったのだ。羞恥心もある、下手な勘違いだったら恥ずかしくて立ち直れない。
けれど何より、下手に踏み込んで今この人を失ってしまえば、私は本当の孤独に陥ってしまう。それが怖かったのだ。

だから私にできたことといえば、ただ引きつりそうな下手くそな笑顔で、誤魔化すことだけだった。

以前から私は、こんなにも臆病な人間だったのだろうか?そうして、疑問ばかりが積もっていく。
踏み出すことも立ち止まることも振り返ることも、何もかもが曖昧なまま。

だからいっそ、目の前の彼が言うように今までを全て振り切って進みだしたほうが余程潔く、前向きな気がした。


:23.4.30


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