10 side MIYA


「グーって。」



一人になった焼き鳥屋で、殴られた頬を撫でる。そこはきっと拳の形に丸く赤みを帯びているだろう。普通、平手じゃないだろうか、と思いながら周りを一瞥。ざわつく店内が一瞬静かになってひどく恥ずかしかったが、何事もなかったように今は元通りの騒がしさを取り戻して、ホッと胸を撫で下ろした


ちょっと、揶揄い過ぎたか。


反応がいちいち面白いからついやり過ぎてしまった。自分の周りの女性たちにはない反応だから、次はどんな顔をしてくれるのだろうか、と。適切な距離を保っていたつもりだったが、さっきのは明らかにやり過ぎた、と反省

最初は、飛雄くんと夫婦になれる女の子ってどんな子なのかと興味本位で絡んでみたら、意外と面白い子で。飛雄くんの奥さんなんて絶対女の子女の子していて、夫の言うことには三つ指ついて従いますって感じのいかにもつまらないような女性だって誠に勝手ながら想像していたけど、色んなものが顔に出て、飛雄くんに負けず劣らず口が悪くて。女の子女の子とは程遠い子だった。飛雄くんが、渋々奥さんだと紹介してくれた時は、おれの想像していた通りの子だと思ったのに



「せやからって、グーっはないやろ、グーは。」



いや本当、普通はビンタじゃないのか。

揶揄い過ぎた自分が悪いのはわかっているが、その報復がまさかグーパンチとは誰が予想できたか。そういうところも自分の想像を超えてくる彼女に、クックッと思わず笑いが漏れた。なんて可笑しい女の子なのだろうか。グーパンチをかましてくるし、しかも全力で。その上、飲食代だと放った5000円札を出す時に、少し躊躇ったのを見逃さなかった。赤葦たちから元々は専業主婦であったことも聞いたし、飛雄くんの内助の功をしていたから、自身の貯金もないと本人から聞いている。…まあ、赤葦たちと話しているのを聞いたというのが正確な表現だが。そんな身の上で、5000円はなかなかの金額だろう。苦虫を噛み潰したような、とてつもない顔をしていたのを思い出してまた肩が震えた



「あー、しんど。」



一頻り笑い、収まった頃に思い出す彼女の泣き顔。泣くのを堪えている顔は一度見たが、泣いているのは初めてだ。女の涙なんて面倒だと思っていた。実際今まで面倒なことばかりだった。別れたくないと泣く女とか、振った女とか。よく泣いてたな。それを見る度に心の熱は氷点下まで下がっていって、心底女の涙というやつを嫌悪していたのに



「何で違うんやろなあ。」



おれが今まで見てきた涙と何が違うのか。何故かあの時、おれの胸を熱くさせたのは本当で。それを隠すかのように揶揄ってみせたその行動に、彼女は怒って。やってしまった、と思って言い訳に出したのが焼き鳥のタレなんて。ちょっとそれはかっこ悪すぎる



「あれ、宮?」


「……なんや、赤葦とぼっくんか。」


「なんだって何だよ、ツムツム!すごく失礼だな!!プンプンだぞぉ!!」


「ナチュラルに座ってくんなや…。」


「一人…じゃ、なさそうだな。」


「あー…連れは帰ったわ。」


「あ、そう。じゃあ、遠慮なく。」


「そこは遠慮しろや。」



お構いなしでテーブルの向かいに座ってくるぼっくん。おれの目の前にもう一つ空のビールジョッキがあったからか、赤葦は一瞬躊躇ったが、一応の確認に「もう帰ったわ」と言えば、さも当たり前のようにおれの向かいに座りジャケットを脱いだ。嫌な顔を向けても、知らんぷりで生を二つ頼み、運ばれてきたそれをおれのグラスに打ち付けて乾杯なんてしてやがる。おれのこの雰囲気見て少しは気を遣ってくれないのだろうか、割とマジで



「何、宮は振られたの?」


「なんでや。」


「このジョッキ、口紅ついてるし。女だろ?」


「えっ、ツムツム彼女いるのかぁ?!ふざけてんな!どんな女だ紹介しろぉ!!」


「あー、もう、やかましい!振られてへんわ!!」


「じゃあ、なんで帰っちゃったの?」


「二人掛かりでなんや、刑事の取り調べか!」


「まさか、ツムツム、彼女怒らせたんだなぁ!いい気味だな!」


「そもそも彼女やない。」


「じゃあ、何だよぉ。」


「なんで自分らに教えなあかんねん。つーか、何や、なんでここで飲み始めてんのや?」


「ツムツム寂しそうだからなぁ!」


「寂しないわ、あほ!」



もう放っておいてくれよ、というおれの思いは目の前の奴らには届かないらしい。ていうか、もうあかん、ツッコミ疲れる。ツッコミってほんまに疲れるんやな。アランくんの有り難みを染み染みと思い知らされたわ

突っ込むのに声を張ったせいで、喉がカラカラだ。少しだけ残っていた生ビールを飲み干してお代わりを頼む。ついでに真緒ちゃんが飲み干したジョッキやら食器を下げてもらい、投げつけていった5000円札をさらっと回収した。あんな顔して置いていったお金を使うわけにはいかないし、二人に説明するのも面倒だ



「そういや今日、会社で都築に会ったぞ。」


「ああ、都築さんは経理部でしたね。」


「いやあ、経費精算の領収書が足りないって怒られた。」


「毎回怒られてませんか、それ。」


「はっはっは!生お代わり!」


「都築さん大変だなあ。」


「そういや蚊に刺されて可哀想だったから痒み止めいるか聞いたら怒られたんだよなぁ。丁度、この辺。」


「……えっ。」



急に出てきた真緒ちゃんの名前に先程のことを思い出して居た堪れず、押し黙っているとぼっくんが昼間の出来事を赤葦に話している。あかん、と思って止めに入ろうとする前にぼっくんの話はするすると進んでいって、止める間もなく話してしまった、首筋の痣のこと。ぼっくんは至って不思議そうに話しているが、赤葦は察しがついたようで、どこまでぼっくんに話して良いか困った顔でおれを見た


別に、おれは関係なんてないけど。


そう思いながら、赤葦の目線にはただ首を振って流しとけと合図する。本人がいないのに、ネタにするのは良くない。ただでさえ先程やらかしてしまったのに、これでその話に乗ってしまったら彼女に合わす顔がなくなる。別に関わりなんて微々たるものだし気にしなくても良いが、それは何だか嫌だなとも思った



「あれってやっぱりキスマークだったのかなあ。」


「ぶっ。」


「なあ、ツムツムどう思う?」


「……知らんわ、あほ。おれが知るわけないやん。」


「だって都築、めちゃくちゃ怒ってたぞ。部長からもデリカシーがないとお叱りを受けたんだからな!」


「…最近、今の時期でも暑いし。季節外れの蚊もおるんちゃう。」


「確かになあ!よし、今度おれの家にある蚊取り線香を都築にプレゼントしてやるかぁ!!」


「……都築さん、喜びそうですね。」



あほらし、と思いながらも、頬杖を着いて、明日それを渡された真緒ちゃんの顔を想像したら少し笑えた。絶対嫌な顔を隠しもしないで、渋々受け取るんだろう。きちんとお礼も言って。そういうところ、意外と律儀で笑える。この間もそうだった。飲み会の翌日、逃げ帰るようにおれの家を出る時にも、深々と頭を下げてお礼を言って。そう言えばあの時も、泣きそうな顔、しとったな


飛雄くんのこと、まだ、好きなんやなあ。


じゃあ、離婚しなければ良かったやんとも思うが、まあ、色んな事情があるんだろう。飛雄くんの言動を見とるとなんか冷めとるし。いや、でも、と、この間の飲み会の時のことを思い出す。ひどい酔い方をした真緒ちゃんに水を無理矢理飲ませたのは、確か。



「……変な元夫婦。」


「ん?」


「おっちゃん、生三つー。」



思わず口から飛び出た言葉を拾う赤葦の気を逸らすために、カウンターにいるおっちゃんに生ビールを三つ頼めば、急いで飲み干す二人を横目でちらり。いい気味だ、と思いながら、ふう、と息を吐いた

おれには理解できない。当たり前だ。おれは部外者で、当事者じゃない。でも、少しモヤモヤする。それが何故なのか、おれには理解できなかった。



溜め息は泡になる。
ごくりと嚥下して、喉元に少しだけ苦味を残した。


(センチメンタル、ツムツム。)
(リズミカルですね。)
(やめろや。売れないバンドの曲名みたいに言うの。)
(溜め息吐いたら幸せ逃げちゃうぞ!)
(あー、はいはい。)


じゃあ、吸っとくわと言えば、ぼっくんはすごい発見をしたかのようなきらきらした目で「確かになあ!」と嬉しそうに言った。なんて純粋なんだ。だからデリカシーもあんまりないんだろうけど。少し、羨ましくなる。考えなしなんやろなあ、きっと。ぼっくんには悪いけど。でも、それがおれには羨ましく思えた。そうできたら、たぶん、今溜め息を吐いていない。なぜあの時、彼女にキスをしてしまったのかも、その後のことも悩まずに済むのに。手元にある生ビールを見下ろしながら、考えてしまう。明日、謝らなあかんな、なんて。後悔、してしまうなんて自分らしくない。けど、彼女のあの顔を思い出して、今までの自分では想像できないほどの罪悪感に駆られて、何だか遣る瀬なくなった。

あとがき


珍しく、キャラ視点。



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