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「お疲れ様ー。」


「つ、疲れた…。」


「何や、真緒ちゃん体力ないなあ。」


「精神的に疲れたんです。」


「えー?そーなん?」



イラっとしながらも、何か反応すれば面白そうに絡んでくるのが目に見えて、余計に疲れそうだからと無視を決め込む。それでも鬱陶しく「なあなあ」と絡んでくる宮さん。もう放っておいてくれよ、と思いながら首を回せば、思ったよりも疲労が溜まっていたらしく、ゴキゴキと聞いたことのない音を立てて自分でもびっくりしてしまったぐらいだ


助っ人だっていうのに、こき使いやがって…。


まあ、少しなら手伝うと言った手前、文句も言えず淡々とお仕事させてもらったが、サポートメンバー一人になんて仕事量を押し付けやがるんだと心の中では文句たらたらだった。大体チームの人数に対してスタッフが少なすぎるんだよ。サポートメンバー二人って。トレーナー一人だし。お金はあるはずだから、もう少しスタッフ層を厚くしてもいいと思うんですけどね。でも、まあ、なんだかんだここのチームメンバーの人たちは自主的に色々動いてくれてるから助かったことも多々あって



「ご飯作るの面倒臭いなあ。」


「せやったら、ご飯食べに行こうや。」


「わたしの独り言に入ってこないでいただきたい。」


「えー、そないでっかい独り言あらへんやん。そんなこと言うて自分、誘われ待ちやろ?」


「例え誘われ待ちでも宮さんとは行かないです。」


「ひどない!?」


「あ、日向ー!仁花ちゃんと3人でご飯食べに行こー!」


「えっ、無理だけど。」


「即答!もう少し考えてくれてもいいんだよ!!」


「じゃあね、都築さん!」


「……なんか…どんまいやな。」



ぽん、と同情の眼差し付きで肩に置かれた手。そうやってやられる方が傷つくんですけどね!と思いながら肩に置かれている宮さんの手を払い除けて、仕方ないから買って帰るか、と家へとつま先を向けて歩き出す。派遣社員は会社までの交通費が支給されない。自費になるので、なるべく歩いて帰っているのだが、練習場から家まではさすがに歩いて帰れそうにないので、仕方なく電車を使っている。まあ、これはイレギュラーだからいいんだけど、会社から家まで歩くのも、月末など締め日で業務が忙しかった日の帰りは辛い。もう少し近場に家があったらなあ、と考えていてハッとする


今月中に家、見つけなきゃ。


来月に飛雄がイタリアに行くなら、今月中に家を空けないと。家をどうするかの話はできていなかったけど、あそこは飛雄が買った家で、わたしの家ではない。離婚の財産分与とかは面倒で、何もしていなかったし、取り敢えずしばらくはあそこに住まわせてもらっていたが、飛雄が日本からいなくなるのであればわたしも出て行かなければ。いつまでも甘えているわけにもいかない。そうしないと、わたしはいつまで経っても飛雄におんぶに抱っこで生活することになってしまうし

一人で部屋探し、なんて初めてで。まずは不動産屋に行けばいいことはわかっているがやっぱり少し不安だ。土地勘があるというわけでもない。東京に上京したてというわけではないが、つい先日まで専業主婦だったし、その前は大学生だ。それも生活のほとんどは飛雄のサポートで、個人的に出かけることなんて年に数回しかない。そんな状態で土地勘なんて得られるはずもなく、まずはどんな情報を元に住む場所を決めるか、というところから始めなくてはいけないようだ



「真緒ちゃん、危ない。」


「わっ。」



色々とぐるぐる考えていたからか、赤信号に気付かずに歩き出そうとしていたらしい。急に腕を引かれて心臓が口から飛び出るかと思った。わたしの腕を掴んだ手を辿り、そこを見上げれば、宮さんが眉間に皺を寄せてわたしを見下ろしていた。次いでわたしの目の前を走り去っていく車たちに、危なかった、と自覚して手に汗



「…なんでついて来てるんですか。」


「自分なあ!」


「でも、まあ、ありがとうございました。」


「素直やないなあ。」


「うるさいです。ていうか、なんで…。」


「どうした……あ。」



交差点の向こう側。ウインドウが華やかなビルの前。すらりとした長身は平均身長171センチばかりの人混みの中ではよく目立つ。夜でもよく映える黒髪。見間違うはずはない。なぜこんなところにいるのかわからないが、向こうはこちらに気付いていないようで。昔から、そうだ。こと、バレーの試合中においては周りがよく見えるくせに、私生活でその能力はさっぱり生かされていない。気付かれない方がいいのに、何だか少し悔しく思った


なんで、こんなところにいるんだろう。


そう思うのも自然なことだ。だってアドラーズの練習場はブラックジャッカルとは真逆のところにある。しかも株式会社シュヴァイデンは、最寄駅から駅三つ向こうの場所に位置しているし、飛雄がなぜここにいるのかわからなかった。一つ言えることは、ここはデートスポットにもなるような繁華街。飛雄が一人でそんなところに用事があるとは考えられなかった。思い当たる考えは一つ。それを考えるだけでも押し潰されそうになる胸に嫌気が差した

じゅくじゅくと痛み出した胸を押さえて深呼吸。いつの間にか乱れていた呼吸をなんとか整える。信号が青になって人が流れていく。それがまるでスローモーションのようだった。一つの背中が飛雄に近づき、小さく手を振っているのが見えた。飛雄に比べれば小柄で華奢な、女性の背中。目を逸らすこともできたのに、わたしの両の目は、そこに釘付けになってしっかりとその景色を記憶しようとする



「真緒ちゃん。」


「な、」



宮さんに掴まれたままの腕を引かれて、名前を呼ばれる。ハッとして言葉を紡ごうとした。「何ですか、宮さん」と紡ごうとしたけど、発せられずに食べられた言葉たちは、わたしの喉元で唾液によって溶かされ霧散する。人目も憚らず、わたしの後頭部に手を添えて傾けられた、整った顔。少しだけ冷えたお互いの鼻がぶつかる



「んっ、んーっ!」



やめてくださいとも言えないまま、強い力で重ねられる唇。行き交う人がこちらを遠巻きにチラチラと見ているのがわかって、かあっと全身の血が沸騰したかのように熱を発した。息苦しさに思わず口を開ければ、ぬるりと侵入してくる宮さんの舌。わたしの舌を絡め取って、飲み切れない唾液が顎を伝って、滴り落ちる。熱に浮かされたような感覚に落ちそうになって、ヒールで自分のつま先を踏みつけ、次いで、宮さんの舌を噛めば、危機を感じてパッと素早く離れる顔。肩で息をするわたしを見下ろした宮さんが口の端についた唾液を拭い、手の甲を唇に当てた



「いってぇ。」


「次やったら噛みちぎりますから!最低、最悪、さい…っ。」


「真緒ちゃんっ。」



誰が泣くもんか、と唇を噛み締める。これ以上口を開けば、泣いてしまう。絶対に泣いてしまう。だから、涙をそれで堰き止めるように、唇を噛み締め、眉間に皺を寄せて宮さんを睨めつければ、伸びてきた宮さんの手を払い除けて、くるりと踵を返す。脱兎の如くその場から逃げ出すわたしの背中に、宮さんの声が突き刺さるも振り返らずに一気に走り抜けた。ヒールで全力疾走をすることになるなんて。途中何度か躓き、前につんのめりそうになりながらも走る。一刻も早くあの場から離れたかった


飛雄が、見てたらどうしよう。


走りながら、そんなことを考えた。もし、あれを見ていたら。人混みだったとはいえ、わたしと宮さんの周りは異様なほど人が避けて通っていたから、遠目から見てもよく目立っただろう。考えたくなかった。見られていないことを自然と祈ってしまう自分がいて、苦笑する



「馬鹿、みたい。」



終わっているのに。それなのに、何を期待するというのか。もうわたしと飛雄の間には何もない。名前のない関係。あの女性がそれを物語っているではないか。それなのに…それなのに、馬鹿みたいに期待をしていた。あの日の、腕の中で見た夢の続きを。



「やだっ。」



何が嫌なのか、わからないまま、見上げた空が皮肉にも都会のここからでも綺麗だと思うくらいの満天の星空だった。



世界の暗闇を探して
泣こうと思っても、そんな場所はどこにもなかった。


(あー、くそっ。)
(あれ、宮さん。)
(…飛雄くん。)
(え、宮って、あの宮侑?!)
(……どうも。)


家に向けた足を止めた。もしも、なんて考えた。もし、わたしが出て行ったら、あの人と過ごすのだろうか。きみと過ごしたあの家で。きみと眠ったあのベッドで。嫌なことがぐるぐると頭の中を駆け巡り、ループする。泣きたくなった。泣き叫びたいのに、わたしに泣ける場所なんてないんだぞと言いたげな満天の星空。暗闇なんて作ってやらないと意地悪をされている気分だ。それでも、帰る場所はあの家しかない。わたしには、今、あそこが帰る場所で。でも、帰りたくなかった。自然と足を止めて俯く。背後からパタパタと駆けてくる足音が聞こえて、思わず振り返った。振り返った先に見えた顔はきみじゃなくて、わたし以上に泣きそうな顔をした宮さんだった。

あとがき


やたらと宮さんとチュッチュしやがって!



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