時間は残酷だ

普段温厚で落ち着いた物腰の彼女にしては騒がしく、正しく転がるような勢いで自身の執務室に入室した秘書である榊葉の青白い顔に、尾崎紅葉は狼狽えた。
彼女との付き合いはもう両手の指では数え切れない程に長く、自分よりも二つばかり上の榊葉は紅葉にとって姉のような存在であり、最も信頼している人物である。常日頃朗らかな笑みを浮かべていることの方が多い彼女が、このように青白く余裕のない表情をするのは、紅葉は恐らく初めて見た。すぐさま席を立ち覚束ない足取りの彼女をソファに座らせ茶を淹れる。つい先日、関西への出張で榊葉が執務室用にと買ってきた京都老舗専門店の日本茶である。
いつもなら紅葉様にそんな事させられない、と言って何一つさせてくれない彼女が、心ここに在らずで俯いたままの様子に、一体何が有ったのかと聞くことも憚られ、何も問う事ができず紅葉は向かいのソファに腰を下ろした。
目の前に置かれた茶を一口飲み一息吐くと、榊葉は落ち着いたのかゆっくりと目の前の紅葉に薄く微笑んだ。

「有難う御座います。紅葉様」
「…よい。しかし何があった。お主のその様な顔は初めて見たぞ」
「えぇと、何と云うか、」

時の流れって怖いなぁ、と。
遠い目をした榊葉に、紅葉は意味が分からず眉を顰めた。


榊葉が紅葉の執務室を訪れる三十分程前、彼女はこのポートマフィアの本部の一階にて、昇降機が到着するのを待っていた。傘下の組織より提出された書類や諜報部の資料が纏められたファイルを数冊と外部から届いた封書を持ち、手首に巻かれた腕時計で時間を確認する。上司である尾崎紅葉は任務が終わり執務室に着く頃合いだ。今から行けば書類に目を通し判子を貰えるついでに封書もお届け出来る。それが終われば今日は失礼させてもらおう。そう頭の中で予定を組み立て乍ら、周りを見渡す。
二四時間体制で人員はいるものの、夕方を優に過ぎたが深夜というには早すぎるこの時間帯は人が少ない。自分一人のみで昇降機を利用する事はよくある事で、今回も周りに人気は無く、自分一人のみかと思っていたが、カツカツと足音が近づいてくる。珍しいと振り向けば、榊葉もよく知る人物が此方に向かっていた。

「中原幹部。お疲れ様です」
「おう。……姐さんのとこか」
「えぇ。中原幹部はご自身の執務室で宜しいでしょうか」
「嗚呼、頼む」

当たり障りのない会話の後、昇降機が着き扉が開く。直ぐ様榊葉が中に入り自動扉を手で押さえ自身の行き先である尾崎紅葉の執務室と中原の執務室のある釦を押す。中原が昇降機の中に入った事を確認すると、扉を閉める釦を押した。
昇降機は加速し上へ上へと登っていく。沈黙の昇降機の中で、最初に口を開いたのは中原であった。

「なァ、榊葉さん」

不意に呼ばれた榊葉は一瞬驚いて目を見開く。自分は中原の方に背を向けているから彼に表情は見えないだろうが、「何でしょうか、中原幹部」と返した声は自分でも分かるくらい強張っていた。それは呼んだ中原にも伝わっており、またその返しに機嫌が悪くなったの榊葉は背中で感じた。
榊葉には一つ心当たりがある。恐らくだが、彼が昔の呼び名で呼んだと言う事は、自分も昔のように呼べと言う事だろう。
かつて、彼がまだポートマフィアに入りたてであった頃、彼は尾崎紅葉の直麾部隊の一員であった。つまり、尾崎紅葉の直属秘書にあたる榊葉は同僚の類であり、同じ地位にいた。部隊の中で最年少であった中原を榊葉はよく気にかけており、紅葉と同じく可愛がっていた。彼も、榊葉によく懐いていたのは誰が見ても明らかで、誰が言い出したのか中原と榊葉は恋人らしいとまで噂された事もあった(但しこの噂は尾ひれ背びれがついた噂であり、彼女に恋人がいない事を紅葉が自分のせいかと憂いた事から、冗談混じりに他の部隊員が懐いていた中原に貰って貰えと言ったことから始まっている。二週間後には鎮火した唯の噂だ)
しかし、それはかつての話で、今は五大幹部の一人と幹部の秘書とは言えど唯の一構成員である。実力主義で序列が絶対であるこの裏社会において例外は存在しない。六年前に起きた抗争で彼が名を挙げてから、榊葉は相応の対応を心掛けてきた。最初の頃は目に見えて狼狽するその表情に心を痛めたが、日が経つにつれ慣れや幹部としての意識も着いたのだろう、それが普通になった。中原は榊葉を呼び捨てにするようになったし、榊葉は中原幹部と呼ぶことに違和感を感じなくなった。それに、幹部と一構成員なのだ。直麾の部隊であった頃より出会わなくなるのは当然の事で、廊下ですれ違うか幹部の集まるような会議などでしか顔を合わせない。むしろ合わせても態々挨拶以外しないのだ。当時を比べれば十分の一程度以下に減った時間なのだから、余計に早かったと思う。
だと言うのに。この状況は一体何なんだ。と榊葉は内心頭を抱える。そうこう思案していても相手は待ってくれないもので、さっきよりも近い場所から声がした。彼の名を呼ぶより先に、榊葉は手首を掴まれ無理矢理に視線を変えられる。

「なかは、」
「榊葉さん」

自分を見上げる蒼い瞳は、自分を慕う眼差しではなく、ぎらぎらと獰猛に榊葉を射抜く。
有無を言わさぬその視線は、やっと言い慣れた彼の苗字と役職を打ち止めさせた。

「榊葉さん言っただろ。自分と同じ年齢になったら考えるって」
「なにを」
「あン時の噂。あいつにはそう返してただろ?」

それは例の噂の時に冗談を冗談で返しただけだった。当時未成年であった彼とすでに成人して二年が経つ自分とでは経験も考えも違う。彼が私くらいの歳になったら考えるけどね。とは返したが、本当にそう思っていた訳ではない。思っていたとしても、それだけの時間があれば恋人くらい出来て、かつての世話を焼いた女との噂など忘れるだろうと誰もが考えるだろう。抑も彼はあの場にいなかったはずでは。と思考が回るものの、結論は出ず堂々巡りを繰り返している。中原はくつくつと喉の奥で笑い、顔には深い笑みを浮かべた。

「俺ァ充分待った。なァ、聞かせてくれよ」
「ま、まって」
「待たねェよ」

耳元で囁く声は昔よりも低く艶を持っている。手首を握る手は昔と比べて大きくなり、ごつごつとした″男性の手″だ。押し返そうと触れた胸板は昔よりも鍛えられていて、力も強くなっているからびくともしない。自分の記憶にあるあの頃の少年の影はなく、目の前にいるのが成人した男性である事がひしひしと伝わり、混乱に混乱が加わって完全に容量超過を起こした彼女の頭は、考える事を強制的に閉じる。口をわなわなと震わせ自分を見上げる蒼い瞳を睨みつけると、獰猛な光を放っていたその蒼は、徐々にその光が消え驚愕と焦燥に変わる。手首を掴む力が緩み、彼女はファイルと封書を両手で胸に抱え、叫ぶ。

「中也くんのばかっ」

瞬間、昇降機が目的地に到着した音がなり扉が開く。彼女は踵を返し幹部である中原より先に昇降機を降りて一目散に廊下を駆けて行った。幸いにも、その階に昇降機を待つ人間は居らず、また廊下も閑散としていた。普段の彼女らしからぬ行いは、同乗した中原しか知らぬものとなった。
それから榊葉が顔面蒼白で紅葉の執務室に転がり込むのはこの出来事から五分後。封書が一通足りない事に気付くのはそれから十分後。彼女が中原の執務室に原稿用紙何十枚分かと言うほどの詫びの言葉と共に現れるのはそれから二十五分後で、封書が無事手元に戻るのは中原しかいない執務室で一悶着あった所為で一時間半後のことである。