真午の月

中原中也は、自身を見つめるそれが一体何なのか分からなかった。

首領である森鴎外に呼び出され、執務室へと足を運ぶ。重厚な扉の先はヨコハマを一望する景色が広がっており、視線の先には執務机の前で膝をつき赤い釣りスカァトを差し出す部屋の主−−森が居た。その視線の先には金髪碧眼、赤い服の森の手児奈−−エリスが頬を膨らませてそっぽを向いて居る。そして目に入ったのは、部屋の真ん中で自分を見つめるそれである。
縦縞の襟衣に金の釦がついた黒い釣りスカァト、その縁にはふんだんに襞があしらわれており、対比して日の下に出た事が無いのではという程白く枝のように細い脚が伸び黒い靴下と靴を履いていた。
森の性癖は分かってはいるが、まさか。言葉を無くし森の方を見るが、彼はその視線に気付かずエリスに強請っていた。

「ねえエリスちゃん、お揃いのお洋服なんだよ?ほら!」
「イヤ。お揃いは良いけどリンタロウの選んだのはイヤ」
「なんでぇ!」
「…あ、チュウヤ!」

中原の訪問に気付いたエリスは森の横をすり抜け中原の元に駆け寄る。エリスの言動に衝撃を受けながらも、自身の呼び出した人物が訪問した事にやっと気づいた森は、「やあ中也くん、いきなり呼び出して済まないね」と表面上取り繕った笑顔で中原を迎えた。

「いえ。それで、あの、その少女は」
「嗚呼、君を呼んだのは彼女のことでね」

君にお世話をお願いしたいんだ。
森に背を押され中原の前にやってきた少女は、ただ真っ直ぐに中原の碧眼を見つめていた。






「ちゅうやさん、中也さん」
「……あ゛?」

自分を呼ぶ声に、意識は徐々に浮上していく。ぬるま湯のような暖かい暗闇から、自分を引き上げるその声は自分の頭上から降り注ぐ。ゆっくりと瞼を開ければ、部屋に差し込む明るさに思わず顔を顰めてしまった。しかし目に明るさが慣れれば眉間に寄った皺も解け、自分を見下ろす人物の輪郭が徐々に明瞭になる。最初に目についたのは、やはりあの時と同じ双眼だった。

「中也さん?」

不思議そうに、もう一度自身の名を呼ぶ彼女に、中原は手を伸ばし手の甲で頬を撫でる。陽の光を知らない様な白磁の肌は絹を思わせる程滑らかで触り心地が良い。気持ち良さそうに目を細め眉を八の字にするその仕草は何処か子猫を連想させ、頬を撫でた手を顎の輪郭を沿う様になぞれば擽ったいのか身を捩る。

「中也さん、あの、やめ、」

小さい制止の声を無視し続けて困った表情と声を楽しんでいると、彼女はそれに気付いて八の字の眉を釣り上げ睨む。しかしそこに威厳はない。子猫の威嚇にしか見えないので低く笑えば、また困った顔に逆戻りした。
流石にこれ以上は彼女の機嫌が悪くなり兼ねないので、一応は謝罪を口にする。

「悪ィ悪ィ。揶揄い過ぎたな」
「中也さんは意地が悪い」

薄い桃色の唇を尖らせて拗ねる彼女は寝台の縁に座る。上体を起こして、後ろから彼女の腰に腕を回し抱き締める。初めて会った時よりも成長している筈なのに、細い身体はあの時と同じくらい華奢で今にも折れそうだ。

「手前と初めて会った時の夢を見た」
「…懐かしいです」

もう幾年が過ぎただろう。思い返せば短いが、経った年月はとても長い。幼い少女は中原の手により、かくも美しい娘へと育った。そして、組織の為に縁談を引き受けた。相手はポートマフィアと協定を結ぶ組織で、奇しくも中原も知る人物であった事が幸いであったが、それでも、蝶よ花よと迄はいかないものの手に塩をかけて一層可愛がった彼女を明け渡す事など簡単に出来なかった。
紆余曲折を経た結果、彼女自身の言葉によって中原は折れた。
そして今日、彼女はこの家を出て行く。


彼女の肩口に額を押し当てると、彼女は空いた手で中原の頭を優しく撫でる。こんな様子を彼女と出会ったばかりの自分が見たら卒倒するだろう。しかし、今の中原はそんなもの御構いなしだ。もう二度と、彼女を抱きしめる事は叶わないのだから。

「泣かされたら何時でも戻って来い。黒蜥蜴引っ張ってぶっ潰してやる」
「物騒ですよ中也さん」
「偶には連絡しろよ」
「はい」
「あと、」
「中也さん」

中原の頭を撫でる手が止み、彼女は中原の方へと振り向いた。穏やかな笑みが、瞳に張る膜が、彼女の心情を物語る。

「私は大変幸せ者です。育てて下さった貴方にこんなに想って頂けるのですから」

白い頬に一筋の雫が流れる。それを掬い上げることを、中原はしなかった。否、出来なかった。そこにどんな感情が含まれていようと、その行為をするのはもう自分ではないのだから。
彼女は云う。「朝食は如何されますか」。
中原は答える。「いつもの、頼むぜ」。
中原の答えに、彼女は笑う。そして「ご用意しますね」と云って寝室を出た。彼女の背を、中原は慈しむ視線で送った。
カーテンの隙間から、透き通った青い空が見える。日柄の良い日というのは、天気も良いものらしい。
嗚呼願わくば、日に向かう君に幸多からんことを。