巫山の雲雨であろうとも

陽が落ち始めれば、あたりは黄昏から宵闇へと世界を変える。その闇を照らすのは数多と灯る赤い提灯で、身を焦がす程燃え盛る紅焔を表していた。しかし云えども所詮は焔である。終には消える定めだろう。

都にある妓楼には多くの有力者や官僚が出入りしていた。水上に建てられた其処は陸とは別しており、現世を感じさせないその場所を極楽と謳う者さえいる程だ。見目の良い女たちと極上の酒を金で買う為に、男たちは赤い提灯を目印に妓楼へと足を運ぶ。



「ちょっと!待ってよ姐さん!」
「あははっ!早くおいでよ!」
「もー!」

赤い提灯の灯る木造りの板場を、女たちが走る。その顔に笑みを浮かべ、互いが楽しそうに自らの肩に掛けた透けたストールを投げ合って遊んでいた。明るい色の衣装に長い髪を美しい簪で纏め上げた彼女達はこの妓楼の妓女である。陽が完全に沈み提灯が全て灯ると客である男たちが舟に乗ってやってくる。この妓楼の正面にある船着場には既に多くの客が訪れ、各々が女を連れて店の座敷へと入り、酒だ、肴だ、舞だ、楽士だ、と明けぬ夜を楽しみ始めていた。

また一隻の舟が船着場に着く。妓楼の世話の男が舟を固定すると、男たちは知った顔で足を進めるが、内二人の客はは物珍しそうに彼方此方を見回していた。その客二人に恰幅の良い上司であろう男が豪快に笑う。

「好きな女を連れてこれば良い。なぁに、お前らの顔なら向こうからやってくるさ」

上司の男の言う通り、二人の男は端正な顔立ちの若い男で、船着場から見上げれば、見目麗しい妓女たちが男たちを見下ろしていた。一人の男が呟く。「どっちが品定めされているか分からないね」。
階段を登り、店の立ち並ぶ廊下へと移動すると、上司は常連らしく、既に知った女の腰を抱いて連れ添っていた。それを遠巻きに見ながら、二人の男の片方が溜息を吐く。

「糞。さっさと帰りてェ…」
「さっさと帰りなよ中也。そして彼女たちの香の香りで誤解されて離婚すれば良い」
「縊り殺すぞ糞太宰」

背の高い蓬髪の男、太宰治は、隣の赤銅色の髪の男、中原中也に胸倉を掴まれて尚飄々とした態度で居た。二人は上司の連れ添いでこの妓楼に赴いており、彼らは皇帝に仕える近衛軍の人間である。妓楼の存在は知っているものの、行ったことがないという二人の話を聞いて、他数名の部下たちと共に上司が連れてきたという経緯があった。中原は既に配偶者がいる為に断ったものの、太宰が押し込め此処に来ているので、それもあって中原は太宰に腹を立てていたのだ。太宰の心中の企みを知り、中原が怒鳴ろうと、息を吸い込んだ瞬間であった。太宰が「あ、」と云ったと同時に中原の背に何かがぶつかる。近衛軍として人並み以上に鍛えている中原にとって、其れ程大きな衝撃ではなかったが、不意の事に手の力が緩み太宰は下された。中原が振り向けば、其処には若々しい妓女が、両手を重ね合わせて頭を下げていた。

「も、申し訳御座いません。榊葉と申します」
「嗚呼、気をつけろよ」

はい。榊葉が返事をすると、その隣にもう一人の妓女が並び、名を名乗って榊葉と同じく頭を下げる。曰く、二人で巫山戯ていたらしい。面をあげる榊葉と太宰の視線が交ざり、太宰の動きが止まった。ぴたりと身を硬直させる太宰を不思議そうに榊葉は見つめるが、そんなことなど露知らず、中原は「いいだろ?」と太宰を見上げる。

「は?」
「否だから、別に探すのも面倒くせェし、この二人で」
「あー、いんじゃないの?彼の人も待ってるしね」
「じゃ、決まりだな。よし、こっち来い。榊葉つったか手前」

呼ばれた榊葉は隣の妓女と顔を見合わせた後、中原の隣へと並び店へと案内する。肩のストールを掛け直し、中原に笑いかける横顔を見ながら、太宰は榊葉と“姉妹”だと云う妓女の腰を抱いてその後を歩いた。太宰の脳内には、榊葉の双眼が焼き付いていた。





上司が贔屓にしていると云う店に華やかな音楽を奏でる楽士と共に部下が揃い、宴は始められた。楽士が奏でる音楽に合わせ、煌びやかな衣装と装飾を見に付けて一人の妓女が舞を踊る。榊葉である。
艶のある長い黒髪を靡かせ、衣装の裾を振りながら順に男たちの座る卓を周り、舞い踊る。足先から指先に至るまで、全神経を集中させているが表情は笑みを浮かべ楽しそうに踊っているものだから、客たちが興に乗るのも無理はない。手拍子が鳴り響く中、回り踊る事によって装飾が擦れ合う音が楽士の音楽と重なりまた旋律を生み、座敷の廊下を通る別の客もその舞に引き込まれて足を止めては、買った妓女に手を引かれていた。
艶やかに、誘うように惜しげも無く細い腰をくねらせ、白く細いしなやかな手足を晒して男たちを楽しませる。ある時は同じ妓女と共に一節を踊り、ある時は客である男を誘い踊る。
彼女が自分と“姉妹”という間柄である妓女と踊っている最中に、太宰と目を合わせた。顔を合わせたのは、あの廊下での出来事以来である。朱の引かれた目が細まり、誘うように手で招く。細い指一本一本が艶めかしく、太宰に触れるか触れないかという絶妙な距離間で動き誘う。しかしそれは一間の事で、彼女は身を翻して別の卓へと踊り向かう。その些細な距離がもどかしいと思ってしまう事に、太宰は酷く驚き、それを紛らわせる為に酒を呷った。
そうして彼女は最初の場所、この座敷で一番地位の高い人間である上司の前へと舞い戻り、終幕した。少しの音楽の余韻の後、拍手が鳴り響く。踊り終えた榊葉の前に、上司が立ち盃を天にかざす。

「見事な舞いだ。褒美をやろう」

云うや否や、上司は榊葉の腰を抱いて盃を差し出す。この店でいちばん高い酒である。彼女はそれを一気に飲み干した。それにまた歓声が上がり、彼女はお辞儀をすると、自身の客である中原の元へと戻った。その背中を太宰は視線で追いかける。その日、彼女が太宰の方を向く事は一度も無かった。



それから数度、機嫌が良いと上司は妓楼へと自分たちを連れ添った。その度に、太宰は榊葉を指名しようとするが、いつの間にか相棒でもある中原が彼女の事を指名している為に、未だ彼女が自分と過ごした事はない。ずっと、彼女の横顔を、姿を、遠目で見ることしか出来なかった。
「随分気に入ってるんだね」。ある日の昼間の事だ。嫌味混じりに太宰が聞けば、中原は機嫌良く応える。「気の利く良い奴だ」と。曰く、自身に妻がいる事を知った上で相談に乗ってくれるらしい。女が喜びそうなものだとか、体に良いものだとか。そう云った類の相談事をしていると云う。
そんな事を話している内に、そう云えば、中原の酒の弱さは周知のものであるが、あの妓楼の帰りは泥酔した事がないのに太宰は気づく。酒の場でそんな事は有り得ないのだが、若しかしたら彼女が水と酒を調整しているのではないかと過ぎった。妻のいる身を泥酔で帰す訳にはいかないという彼女の配慮だろうか。普通妓女ならば、妓楼から出る為に身請けの先を探すものではないかと思っていたが、案外そうではないのかもしれない。そう考えを巡らせていると、目下の男が不敵に笑いながら見上げて爆弾を落とした。

「なんだ手前、彼奴に惚れてんのか」

暫しの沈黙。言葉を噛み砕き理解するのに少しの時間を要したが、その言葉は太宰の心にすとんと落ちた。

「そうかも」

今度は逆に、中原が目を見開き驚く番だった。「まじかよ、手前」。そう小さく呟く中原は、よもや目の前の男が妓楼の一妓女に入れ込むとは考えてもいなかった。一般的な女性にさえ持ち前の頭の回転の速さで歯の浮く様な台詞を吐いて巻くのだ。先程の発言も謂わば茶化しで、「何云ってるの」なんて嫌な顔をされると思っていたから本気ではなかったのだが、当の本人はそうではないらしい。妙にすっきりとした、腑に落ちた顔は、相棒として短くない付き合いをする中原は見たことがない。


善は急げと、その日の夜。太宰は単身で妓楼へ赴いた。もうすっかり慣れたもので、妓女たちに名を呼ばれながらも、一心にその店へと歩みを向ける。途中、すれ違う妓女にぶつかり、倒れないよう肩を抱く。その顔を、太宰は今までずっと見ていた。

「申し訳御座いません、あ、」
「ふふ、初めての時もそうだったね」

驚く榊葉に、太宰は笑う。今見ているのは何時もの遠くからの横顔ではない。白い頬を手の甲で撫でながら、彼女の腰を抱き寄せる。

「これはこれは、太宰様。…今日は中原様はご一緒ではないので?」
「あのちっちゃな蛞蝓はいないのだよ。私一人だけ」
「それは、大変珍しい」
「君に、逢いに来たんだ」

双眼の中に太宰のみが映っている。嗚呼そうだ。自分はこうやって彼女を抱き寄せたかった。彼女を見つめたかった。あの初めて見た舞の時にもどかしく感じた距離を、やっと埋める事が出来たと、太宰は胸に広がる充実感と共に榊葉を抱きしめた。

店には個室があるらしい。いつもは大人数で来ているので知らなかったが、彼女は太宰をその一部屋へと案内した。
卓の上に酒と肴の乗った盆を置き、盃へと注ぐと、榊葉は太宰に差し出す。呷った酒が喉を通り、熱くなる。たかが一杯で酔う事の無い太宰だが、今日は一段と、進むのが早かった。きっと、目の前の彼女の存在が大きいからだろう。
二人はたわいの無い話をしていく。榊葉は同じ妓女の“姉妹”の話。太宰は中原や慕う後輩二人の話をしながら、時間を過ごした。最初に切り出したのは、太宰だった。

「本当は、もっとこうやって話したかったのだよ」
「嬉しいです」
「本当だよ?でもあの蛞蝓が君のことばっかり指名するものだからいつまで経っても君を呼べない」

太宰が不貞腐る様に盃の酒を飲めば、榊葉はくすくすと口元を隠して笑う。

「なら、今度は私から太宰様にお迎えに行きます。そうすれば良いでしょう?」
「わぁ!本当?」
「勿論。船着場でお待ちしてます」
「走ってまた誰かにぶつかっちゃ駄目だよ」
「ふふ、気をつけます」

刻一刻と、宵闇の時は過ぎ去っていく。
気づけば宵も深くなり、帰る客が出始める時間が迫る。盃の酒を飲み干して、太宰は立ち上がり身を整えた。船着場のところまで見送るのが妓女の役目だ。榊葉を立ち上がり太宰の横へと並び立つ。すると、太宰は彼女の腕を引き寄せて体を抱きしめた。最初は驚いて固まっていた榊葉だが、ゆっくりとその背中に腕を回し、太宰の衣服を握りしめた。
名残惜しく思いながら、どちらともなく、力が緩み、腕が下がる。榊葉の掌に太宰は自身の掌を重ね、掌へと唇を寄せた。小さな音と共に掌の中心を舌先がなぞる。小さな快楽に肩を跳ねさせる彼女を薄目で見ながら最後にまた唇を寄せた後、その手を指を絡めた繋いだ。そのまま、船着場へと歩いていく。船着場まで、人とすれ違う事はなかった。ほとんどの客がもう帰った後のようである。

「また、逢いに来るよ」
「…お待ちしています」
「うん」

朱の引かれた目元を親指でなぞった後、繋いだ手は解かれ、名残惜しげに離れていく。指先さえも離れて、遠ざかる太宰の背中を、榊葉はじっと見つめていた。
舟に太宰が乗り込み、だんだんと進み遠くなっていく。太宰が唇を寄せた掌だけが、いつまでも熱く感じて、胸元でぎゅっと握りしめ、遠ざかり消えていく舟をじっと見つめていた。


榊葉が片付けを終えて部屋に戻る途中だった。今も尚、掌が火傷をした時の様に熱い。太宰の顔を浮かべると胸の奥底がつきりと痛み、同時に顔が熱くなる気がする。今まで味わった事の無い感覚にそわそわと落ち着かないで居ると、別の店の姐が榊葉を呼び止めた。どうやら、上客が皆に酒を振る舞ったらしい。

「これ、貴女の分よ。“姉妹”で飲んでいないのは貴女だけだから、飲み終えたら片付けておきなさい」

個別の客をとる妓女には良くある事である。姐に礼を述べて彼女はそれを受け取った。いっそ酔って仕舞えば、この感覚も消えるだろう。明日には何時もの自分に戻れるだろうと信じて、彼女は部屋で一人たった一口の酒を呷った。





あの夜以来、太宰は妓楼に入る事は出来なかった。それは皇帝の護衛として遠征に出なくてなならなかったからだ。勿論、中原もそれに加わっており、その長さは一月に及んだ。
そして今日。やっと都に戻り、最中での活躍を褒め称え、また妓楼に行かないかという上司誘いが入った。嗚呼やっと彼女に会えると、太宰は勿論と返す。約束通り、彼女はきっと、自分に会いにあの船着場に来てくれるだろうと信じていた。
中原は隣の太宰をちらりと見上げて、辞退を申し出る。

「生憎、今夜は妻と予定が有りますので」

そう云う中原に、上司はそれは仕方がないと笑った。「毎度連れ出しては奥方に面目が立たんからな」。それだけではない事を、この上司は知らないだろうが、気に食わない隣の男が、妓女と云えども女に熱を上げているのだ。流石の中原も、ここはあえて気を使った。この男の為でもあるが、自分に良くしてくれる彼女に向けてもだ。一々癪に障るような男だが、その気を出せば頭脳と横の繋がりで妓女一人を身請けするくらいの事は簡単に出来るような男である。良き友人である彼女を任せるのなら、この男なら信用できた。
そんな二人の思惑などは露知らず、上司の男は言葉を続ける。
「それに、彼女の事もあるだろう」。中原だけでなく、太宰も首を傾げた。何のことか、“彼女”というのが誰の事なのか分からず、二人は問う。上司は「嗚呼」と納得した様子で、何処か云い淀みながらも、口を開いた。嫌な予感がする。互いの背筋に冷たいものが伝った。

「あの榊葉という妓女、一月程前に呪いで亡くなったそうだ」

曰く、別の店の妓女が客を彼女に取られた腹いせに蠱毒の呪いをかけられ朝日が上らぬ内に亡くなったらしい。
美しい身体は、毒に侵されて見るも無残になっていた。まだ若いのに気の毒だという上司の話を太宰は遠い意識で聞いていた。
榊葉が亡くなったのは、太宰が最後に店を訪れた、翌日の朝だった。