当人、露知らず

嗚呼よかった。この資料、処理しといて呉れる?
直属の上司に当たる太宰から渡された資料は、先日行った作戦での報告資料だった。部下が纏めたであろう報告書とその資料の束は存外ずっしりと重量がある。漸く仕事が片付き帰宅しようとするそのすれ違い様の片手間に、なんと簡単に渡してくれるものだ。既に手に持った鞄と腕に持った外套が目に入らないのか。じとりと睨めば、彼は特に気にした様子もなく、それどころかにっこりと笑って、「じゃ。私、首領に報告してくるから」の言葉を残して去って行った。彼と私は所謂同期と呼ばれるものであるのだが、彼の方が地位は随分と上であるし、序列が絶対であるこの世界で同期云々を取り出してみても意味はないのだから、やはり私はため息を吐いて渡された資料を処理すべく今の今まで居た部屋にとんぼ返りするのだった。



戻った部屋で処理を始めて暫く経った。そろそろ手元のカップが寂しくなってきた。椅子に座りっぱなしというのはやはり辛く、背筋を伸ばしゆっくりと首を回して凝り固まる首筋と肩をほぐしながら席を立ち、新しい珈琲を淹れようとカップを持った時だった。
扉を叩かれる音と共に、乱暴に、大きな音を立てて部屋の扉が開かれる。なんとなく、姿を見なくともその人物は予想できた。

「おい糞太宰!」
「…残念ながら、彼の人は不在です」
「あ?ンだよ」

部屋に入室したのは予想通り私に仕事を押し付けた人の相棒・中原中也であった。明るい赤茶の髪の髪に黒い帽子を被ったその人は、鋭い目つきで私を睨んだが、その瞳はだんだんとまん丸に見開かれる。はて、一体どうしたのだろうか。そう思考しだす前に、彼の手にある書類の束が目に入り、彼が怒鳴るのに納得がいった。嗚呼、報告書でも押し付けられたに違いない。
目の前の彼相手に、太宰が良くする嫌がらせだ。黒社会最悪の二人組として名を馳せる太宰と中原中也は犬猿の仲である。互いが互いを罵り合わない日はないし、ちょっかいを掛けない日もない。特に太宰は自分が幹部という立場にいることと、無駄に頭が回ることもあり、中原中也は大概それに巻き込まれ不運を被っていた。今回の書類もその一つだ。どうせ言い様に口で騙られ乗せられたに違いない。

「書類、お預かりしましょうか」
「あ、嗚呼。頼む」
「いえ、」

カップを元の位置に戻して、彼が持っていた書類を預かる。報告書と思わしきそれをクリアホルダーの中に仕舞って、付箋で“太宰行 中原中也から”と張り付ける。これで忘れることはないだろう。
未だ部屋の扉の前から動かない彼を不思議に思いつつ、しかし、声をかけるのも不自然だろうかと考えあぐねる。
何故なら、私は彼の事をあまり知らない。太宰と組んでいる事。尾崎紅葉様の部隊という事。今は幹部候補という情報しか知らない。前述の通り私は太宰とは付き合いがあるが、彼とは多分両手で数える程しか面と向かって話した事はないので、実質自分より地位の高い人間なのだから、それなりに丁重に扱うべきなのだろう、くらいにしか考えていなかった。真逆、こんな時にお会いするとは思っていなかったのだ。
底の見えるカップを覗いて、どうしようかと悩んだものの、しかし、相手がどうしようもなく立ち竦んでいるものだから、一応念のために声だけはかけた。

「あの、」
「おう」
「何かご用件が?伝言で良ければ申し伝えますが」
「そう云う訳じゃ……。否、在る。だがあの野郎に直接云いてェ。あの糞野郎いつ戻る予定だ」
「…一応首領への報告と聞いていますが、戻る時間までは」
「分かった。暫く待たせて貰うぜ」
「了解しました。…珈琲お淹れしましょうか」
「頼む」
「はい」

自分のカップを持って併設されている給湯室へ向かう。簡易珈琲だが仕方はあるまい。来客用のカップに顆粒を入れてお湯を注ぎお盆の上へとカップを乗せると元の部屋へと戻る。

「どうぞ」
「悪いな」
「いえ、」
「手前、いつも此処にいんのか」
「え、あ、はい。太宰様はあまり書類整理等されないので、差支えないものは私が」
「…そうか」
「左手奥の事務机におりますので、何かありましたら申し付け下さい」
「嗚呼、分かった。ありがとうな」
「…いえ、失礼します」

応接のソファへと案内し、彼が腰を下ろすと目の前に湯気のくゆるカップを置いた。香ばしい珈琲の香りが鼻腔をくすぐる。数言の会話の後、資料を確認し処理する作業を再開する為席に着いたが、如何せん、落ち着かない。多分、彼の人の言葉の所為だ。
太宰も処理や報告書を上げる時「ありがとう」と口にするが、何か太宰とは違う気がする。一体何が違うのか、見当もつかないのだが言葉が詰まってしまい、一瞬動揺してしまった。いけない。気が緩んでいる証拠だ。気合を入れ直す様万年筆を持ち直し書類の文字を追う。そうすれば、自然と頭の中が切り替わって元の落ち着きが戻ってくる。
私の机の位置からは応接の様子は伺えないので、耳にする情報のみがその人の様子を伝えてくる。珈琲の啜る音や、端末の操作で鳴る音だ。しかし幸いだ。元々、人見知りの気があるので、出来れば他者との交流は遠慮したい性分なのだ。何事もなく穏便にことが進む様、あとは太宰が戻ればこれで万事解決である。きっと、先程胸の忙しなさも緊張によるものに違いない。そう思った。

万年筆を走らせること数時間。静寂を切り裂く様に端末が鳴り響く。それ程音量は大きくないのだが、部屋が静かすぎることもあってか、その音はやけに部屋に響いた。画面に映し出される名前は上司のものだ。何かあったのか。直ぐに端末を操作し耳に当てる。

「はい、」
『ごめん。すっかり報告書類のこと忘れてて酒場に着いちゃった』
「…成程?」
『怒らないで聞いてくれ給え。本当、本当にうっかりしてたの私』
「…うっかり?」
『そう、うっかり』

誰にでもあるでしょ?そう云わんばかりの口調に腹を立ててしまうのは仕方のない事だと思う。帰宅途中に書類押し付けられて残業させられて、執務机に溜まった未処理の書類の束がごまんとあるのに自分は既に職務を終えて酒場ですか。此処までくると一周回って笑いがこみ上げてきそうだ。私はそれはもう優しい朗らかな声でその上司を呼んだ。

「太宰、」
『ちょ、ちょっと待って。本当に、本当なの。報告の後に安吾に会ってそれで、』

電話口の背後から、「僕の所為にしないで頂けますか」と声がした。太宰の云う“安吾”で、諜報員の坂口さんだろう。彼と、もう一人最下級構成員の織田さんが良く酒場に飲みに行くことは知っていはいる。太宰本人の口から「面白いよ」とご機嫌な口調で話していたからだ。今更驚きはしないし口も出さないが、しかし、職務を放棄となると流石の私も黙ってはいない。

「ご勝手にどうぞ」
『まっ』

自分でも聞いたことの無い程低い平坦な声だった。太宰が何か云いかけていたがそんなもの無視して電話を切り、次の電話が鳴る前に電源を落とした。画面が黒に染まる端末を机の上に投げ捨てるとそれなりに大きな音がしたが気に掛ける余裕もなく、肘を机上について頭を支えた。深い溜息は大目に見てほしい。込み上げる鬱憤がこの息と共に出て行ったらいいのにと思うが、そんな事ある筈もなく、突如として脱力感と虚無感が頭と身体を支配していく。今に始まった事じゃない。そう。今に始まった事ではないのだが、スーパーやコンビニのポイントの如く塵が積もって山になった。そして上限に達したのが今日だったという訳だ。あンの糞野郎。とかつての口調に戻り小さく口にした時だった。革靴の音が嫌に近くに耳についた。そこで思考が正常に戻る。自分だけと思っていたこの部屋には、私以外の人物がいたことを思い出した。面を上げると、その人物が私を見下ろしていた。その視線の冷たさは太宰と並ぶだけあって背筋に冷や汗が通る。しまったと思ってももう遅い。私は勢いよく席を立ち腰を折って頭を下げた。

「も、申し訳ありません。太宰様は今日は、」
「戻らねェらしいな」
「…はい。ご足労頂いたにも関わらず」
「それ、終わってんのか」

言葉を遮って、顎で示されたのは机上の書類だ。突然の問いに驚いたものの、是と返した。一応、書類の処理はもう終わっている。あとは太宰の確認の判子を貰うだけだ。とも付け加えれば、その人の唇が弧を描く。迷いなく机の上に放られた私の端末を掴むと「行くぞ」と一言いった。訳が分からず困惑していると、切った電源をつける。すると途端に鳴り響く端末にまたも躊躇いなく出た。

『あっ!ねぇ、もうすぐ』
「悪ィな糞野郎。手前の部下は俺が貰ってくわ」
『…はあ?なんで蛞蝓がそんな所に』
「手前が押し付けた報告書を投げに来たんだよ。しかしまあ最高の気分だぜ。なんせ手前のお抱えを一晩口説ける」
『あの子が君程度で靡く訳ないでしょ』
「そりゃどうかな」

ばきり、と音を立てて私の端末が真っ二つになった。それはもう物理的な意味で。その前に、私は会話を理解する為の咀嚼が出来ないでいた。固まる私に目の前の人は青い瞳を細めて笑う。

「そういう訳だ。取り敢えず飯行こうや」

どういう訳だ。この野郎。