見ないで



二度と見られない光景だと思って、その横顔を見つめていれば、随分と嫌そうな歪んだ顔で隣に座る私を睨んだ。

「ンだよ。その目は」
「何でもないよお?」

努めて作った胸焼けするくらい甘ったるい声とこれまた表情筋を総動員して形成したか弱い天然ぶった顔で小首を傾げる。きゅるん、なんて効果音とハート乱舞な背景で心の内で思った事を隠し答えれば、ハンドルを握るその男、立原は一層眉の皺を深めて顔を歪ませた。

「気持ち悪っ……」
「何よ。アンタの好きそうな女でしょ」
「てめえがやってる時点で化物案件だわ」
「はー?女に清楚潔癖思想してる奴の為にやってあげたんじゃない。感謝しろよ」
「てんめぇ……」

ほら青。
変わった信号を顎で差し教えれば、立原は何も云わず舌打ちをしてアクセルを踏む。意外にゆっくりと発進する車体に、立原の癖にと心の中でやり場のない苛立ちを八つ当たりをした。
黒蜥蜴の十人長たる立原と仕事をする時は、大概殲滅戦や制圧など実働の任務である。今回も例に漏れず殲滅任務で私が指揮を執って行っていた。任務自体は程なく終わったが、問題はその後、其の儘直帰の予定だった私は上司の中原幹部に呼び出され、直帰の予定は泡の如く儚く消え去り、しかもよりによって立原の運転で戻ることになったのである。立原に送って貰えば良いだろ、と何気なく云う中原幹部の言葉に、両者とも顔を顰めたのは云うまでもない。
そもそも何故これ程までに私達の仲が宜しくないと云うと、互いの事が気に食わないから、と云うのが相応しい。
実働部隊である黒蜥蜴に席を置く立原と、武闘派である中原幹部の下に着く私は、何方も銃の腕前を買われて組織に身を置いている。しかし立原から見れば、女の癖に武闘派として名高い中原幹部の下にいる私の事が気に食わないのだし、私はそれ故に突っかかってくる立原の事が気に食わない。だが仕事で組むのは当然ありえる事だから、互いに最低限の会話と確認のみしか行わないのが暗黙のルールとなっていた。
エアコンとエンジンの音をBGMに、窓の枠に肘をついて流れるネオンの光を目で追っていれば、不意に車体が止まってつんのめる。けれど、衝撃の割に前にはいかなかった。立原が片腕を私の前に出した事で止めたからだ。

「っ、何?」
「チッ、っぶねぇな。…あの野郎ウィンカーも出さずに割り込んできやがったんだよ」
「嗚呼。取って一年とか、気ィ抜けてる奴らでしょ。てか腕邪魔、退かして」
「あ?嗚呼…。っとに可愛くねえな」

礼くらい云えねえのかよ。と続くような云い方で、立原は私を一瞥すると腕をハンドルへと戻した。その言葉を鼻で笑う。可愛くない?当たり前でしょ。

「こんな世界で“可愛げ”で生き残れる訳無いじゃない」

愛嬌は必要だ。それくらい私でも分かる。けれどそれを武器に生き残る事などこの社会では不可能だ。特に女の身であれば余計のこと、自分の価値を表に出さなくては舐められて、甘く見られる。
異能者以外はこの世界では捨て駒だ。いくら銃の腕を持っていたとしても、一構成員など代替えが山程いる。その中で生き残るためには、自分の価値を組織に示す必要がある。だからこそ言葉遣いも、態度も、化粧も、衣服も、爪先から髪に至るまで、すべて私の価値を高める為の要素にしなくてはならないのだ。
だけどアンタには分からないでしょうね。だからそんな言葉吐けるんでしょう。
そういう所が、私は羨ましくて嫉ましくて。自分自身に劣等を感じて嫌悪している。分かってる。これは全て、私の八つ当たりなのだ。

「ンな事ねえだろ。女だったら余計に、」
「五月蝿いわね。黙って前見たら?」

言葉は息をするようにすらすらと出てくる。至極当然、当たり前であると云うような態度で。これが私の獲得した、この世界で生きる為の在り方なのだ。
足を組み直して、窓の外の暗闇へと視線を変える。窓に反射した立原の横顔は、何が云いた気ではあったが、此方を一瞥しただけに留まり互いに口を閉じた。話す事など何もなかった。

それから何方とも無言のままビルの地下駐車場へと着いた。車を駐車してエンジンが切れると同時に助手席から降り、そしてエレベーターのある建物内へと向かう。無機質な灰色のコンクリートに私のヒールの音が響き、次いで金属同士が当たる音がした。
腕を掴まれたのは、その瞬間だった。力強い筋張った手だ。それは先程私の身体をいとも容易く止めた。その時の事を思い出して、奥歯を噛み締めた。何とも云えない燻りが、忽ち燃え盛り激情となるのが自分でもよく分かった。

「…何のつもり?」

腹の底から、自分でも驚く程低い声が出た。それに動じる事無く、私の腕を掴んだ立原は正面から私を見つめる。嫌な目だ。今すぐその目から逃れたい衝動に駆られる。けれどそんな事など出来やしない。逸らす事はつまり、自分が弱いと公言しているようなものだ。それを私は許せない。
ゆっくりと、意を決して開かれる唇は、疑問と困惑の入り混じった声を吐き出し、言葉に乗せる。
その表情は、哀れみ。

吐かれた言葉に目を見開く。私に取ってそれは侮辱だった。そして、立原の口から最も聞きたくない言葉だった。
私は無理矢理腕を振り解いて建物の中へと早歩きで入った。後ろから、立原が私を呼ぶ声がコンクリートを伝い耳に入る。それさえも鬱陶しくて逃れるように無意識に足は早くなった。幸い、人の気配はなく、またエレベーターは私のいる階に止まっていて、ボタンを押せば扉が開き、小さな箱の中に身を隠すように入り込むと扉を閉める。閉まる直前、わずかな隙間に赤茶の髪が目に入ったが、機械の扉はその役目通り無機質に締まり上昇する。
そこでやっと、私は息を吐いた。手摺りに、壁に身をもたれかけ吐いた息は震えていた。頬を伝うものは、先程掛けられた言葉通りで益々自分が嫌になる。
震える唇を噛んで、拳を握りしめて暗示をかけるように云い聞かせれば、心は簡単に蓋が出来る。目的階を告げる軽快な音と同時に頭の中は切り替わり、私は一歩を踏み出した。
今の私は、常闇で組織に仇なす敵を追い立てる武装された兵そのものである。それ以外の、何者でもない。