図らずも好転



私を男手一つで育ててくれた父が死んだ。
父は職業不明の人だった。夜遅くに家を出たと思えば何日も帰って来ず、一週間後にふらりといつの間にか帰って来て眠っていることもあった。なんの仕事に着いているのか、興味はあったものの、部屋の梁にかけられた真っ黒の背広と、偶に香る鉄の錆びたような匂いが、無意識に知ることを拒んでいた。
家事は専ら私の仕事で、ほぼ一人で暮らしているものとばかり周りから思われているほどで、父がいることを友達に話したら驚かれたこともある。仕事と言って何処かほっつき歩いているのでは、ある種の育児放棄では、と周りの大人は憤慨したり同情したりと様々な反応をするが、父は父なりに私のことを気にかけて愛してくれていたと思う。普通の家庭の様に、誕生日やお祝い事にはちゃんと家に帰って来てくれて祝ってくれたし、時間があるときは私と出かけてくれたり、一緒にご飯を作って向かい合って食事をした。本当は休みたいだろうに私との時間を大切にしてくれていた、不器用ながらも私を愛してくれた優しい父だった。

父の訃報を告げたのは、父よりも大分若い男の人だった。私とそれ程変わらない背丈の、洒落た帽子を被った人で、自分は父の上司で、父は仕事中に亡くなったのだと語った。また、此方の勝手で申し訳ないが遺留品等は手渡すことは出来ない、とも。父はその仕事に就く際にそう云った書類に署名をし同意を得ている、と、その人は父の署名の入った紙を取り出した。正しく、そこに書いてあるのは父の字で書かれた父の名で、私と同じ名字の捺印であった。
真摯に話すその人とは真逆に私はまるで他人事の様に話を聞いていた。
未成年であるから、他の保護者を立てなければならないが、生憎他の身寄りは、父の話から聞いたこともなく、このまま施設に行くのが妥当だろう。しかし、それはどうしても避けたかった。何故かは分からない。けれど、どうしても、施設に行くのだけは避けたかった。
苦い顔が外に出ていたのか、彼はこう言った。「俺の所に来るか」と。
断る理由は無かった。

父の上司であるその人は、中原中也さん。と云う。
中原さんにお世話になり一年半が経過した。当初は自分には分不相応なこのマンションを自由に使えと言われて、毎日びくびく震えながら生活していたと云うのに、今ではもう第二の我が家と云っても過言ではない程慣れてしまった。
最初は月一回程しかマンションに訪れなかった中原さんは、日が経つに連れて週一回、三日に一回とよく訪れて下さり、今ではほぼ毎日寝食を共にしていた。私は「おかえりなさい」とお迎えすることも多くなって、父は知らぬうちに家に帰ってきて居たから、その一言が云い慣れなくて、一年半経った今でも気恥ずかしさがあるのは、秘密にしているつもりだが、多分、中原さんは気づいていらっしゃるかもしれない。
今日も中原さんは夜の深い時分に「お帰り」になられた。

「おかえりなさい、中原さん」
「おう。戻った」

私を見つめるその暖かく優しい眼差しに、何故か胸がちくりと痛んだ。


リビングのソファに座る中原さんに、今日貰ってきた書類の入った封筒と朱肉を持って声をかける。

「中原さん」
「どうした榊葉」
「この欄にご署名と捺印を頂きたいのですが」
「いいぞ。またガッコーの書類か」
「いいえ。賃貸契約の書類です」
「は?」

仕事用だろう、胸ポケットから取り出した万年筆を持つ手が止まる。海のような蒼い瞳をまん丸に見開いて、中原さんは対面に座る私を見た。先程から痛む胸を知らぬふりをして、私は続けた。

「就職先も内定を貰えましたし、学校を卒業したら、此処から失礼させて頂こうと思いまして」
「…別に、此処から通りゃいいだろ」
「社会に出て給金を頂けるようになるのですから、中原さんのお手を煩わせるのは」
「俺が何時、手前にそんなこと云った」
「否、そう仰られたことは有りませんが、」
「だったらこの話は無しだ。いいな」
「しかし、」

食い下がる私に、中原さんはしっかりと私を見据えて、問う。

「そんなに此処から出てェのか」
「そう云う訳では!その、それでは中原さんにご迷惑が」
「俺は手前が居て迷惑とも面倒とも思った事ねェよ」

そう云われてしまうと、私は二の句が継げなくなり、口を開いたり閉じたりを繰り返す。その様子を可笑しく思ったのか、喉の奥で低く笑う中原さんに此方は真面目なのにと少し怒れてきてしまう。それが顔に出ていたのか、彼は悪い悪いと全く悪気を感じさせない軽さで形だけの謝罪をした。私を見つめる目は、出迎えた時と同じ色を湛え、居たたまれなくなって、ついその視線から逃れるように目線を下へと外した。

「中原さんはどうして、そうまでして私を置いて下さるのですか」

私の問いかけは続く。

「たかが一介の部下の娘にどうして」
「榊葉」

名を呼ばれて、いつもなら返事をするのだけれども、どうしてか、この時はそれが出来ず、まるで水が器から溢れるように言葉がこぼれた。

「父がどのような職業についていたのか、私は知りません。けれど、表立てるような職業ではないことは、薄々分かっていました。その父の上司である中原さんも、恐らくそう云った類の身の上なのだと思います。中原さんはお優しい方ですから、部下の娘で身寄りを亡くした私を不憫に思って、」
「榊葉ッ!」

中原さんの強い声で、私ははっと意識を取り戻した。何を口走ってしまったのか、自分の言った言葉一つ一つが頭の中でぐるぐると回る。私は机の上にあった書類を素早く片付け手に持つ。中原さんの表情を見るのが怖くて、顔を背けたまま「すみません。失礼します」と部屋に戻ろうと踵を返したが、中原さんが私の腕を掴み自分の方へ引き寄せた為、私は中原さんの腕の中へと倒れ込んだ。

「なかは、」
「なァ榊葉。手前は勘違いしてやがる」

勘違い。それはどういう事だろう。
口を噤んで、中原さんの痛いくらいの抱擁を受けながら、私は何を勘違いしたのか必死になって頭の中を探した。

「手前は、俺を″お優しい″なんつったが、俺は死んだ部下の身内だからといって側に置かねェ」
「中原さん、」
「ましてや頻繁に様子を見に来ねェし、その場所を居住にしねェ」
「あの、」
「俺は、手前だから此処に置いて此処に帰ってきてる」

それは、と口に出したものの、声にはならなかった。その真意は、その意味は。導き出す答えは余りにも私に都合が良すぎる。だって、私は。
優しく、甘やかに、中原さんは私の名を呼び抱きしめる。その声を聴く度に、先程まで胸を痛めた″それ″は、じわりと暖かく胸に広がり顔まで赤く染め上げた。

「とっくの昔に、俺は手前に惚れてんだ」

私の頬に撫でるように手を添え、中原さんは私を見つめながらそう云った。私も、貴方が。そう返そうとした言葉は、中原さんの口の中に消えた。