ミッドナイトブルー



今日も一日仕事を終えて、寄り道をすることなく真っ直ぐ自宅へと帰る。繁忙期終盤を過ぎやっと仕事の波が引いて来たことで、明日は何もない休日だ。はてさてどのように過ごそうか。朝は遅くまで布団の中に潜っているのもよし。ぼちぼち起きてちょっと遅めの朝ご飯兼早めの昼ご飯にして、買い物に行くもよし。仕事からの開放感に浮き立つのも仕方のないことだ。
自宅に着いた所でさっさと浴槽に湯を張る。休日前夜の今日くらいバスボムを入れた湯船に浸かり、連日の仕事疲れを癒しても罰は当たらないだろう。
いつもよりも長くバスタイムを満喫した後、いつもより念入りにスキンケアとボディケアをして、やりたかったことを一つずつ消化していると、机の上に置いた端末が震える。
画面に映し出された電話番号と名前に、既に頂点に達したと思っていた機嫌と心拍数が上がった。受話器の印を指で押し当て、耳に当てるとその人の声が頭の中に響いく。

『よう。起こしたか』
「ううん、全然。これから軽く何か摘むつもりだった」
『この時間にかァ?』
「今日くらいいいの!やっと繁忙期終わったんだもの!」
『お。そうだったか』

ご苦労さん。という声に、思わず頬が緩む。電話の主である恋人、中也はきっと何気なく言っただけだろうが、実は私はこの声が好きだ。優しい低音で労われると、次もまた頑張ろうと思えてしまうくらい、私は彼にベタ惚れで、安直なちょろい奴なのだ。中也が真面な人間で良かったと心底思う。ヒモやホストだったらATM女間違いなしだった自信がある。有り難さを改めて感じて誠心誠意込めて感謝を伝えると、彼は「何云ってんだ手前」とからからと笑い飛ばした。そして、はたと気づいたようにそうか、と漏らした。

『つーことは、明日は休みか』
「そだよ。中也はまだ仕事だよね」
『あー。まァ、そうだな』
「気にしないで。私、中也の声が聞けただけで嬉しいから」

全く会えないよりか、嬉しいよ。明日も仕事頑張ってね、そう続けた。
互いが社会人であることもあり、会える時間はかなり短い。休日も高い頻度で合わないし、唯のOLである私に比べて中也が会社にいる時間の方が多いのは仕方ないことだ。そりゃ寂しいしちょっと不安な時もあるけど、こうやって気にかけて電話をくれるだけでも嬉しいし、幸せだ。ちょっと欲を言えば会いたいけど、私の我儘で彼を困らせたくない方が勝っているから、今のところは自制が効いてる。
しかし、そんな私と対照的に、彼はぐっと押し黙る。どうかしたのだろうか、気に触ることを言ったかと、彼の名前をもう一度呼ぶと、少しの間の後に彼は私を呼んだ。

『手前まだ暫く起きてるな?』
「え?あ、うん」
『一時間以内に行く。待ってろ』
「ちょ、ちょっと」

容赦なく彼は電話を切る。行く、というのはつまり家に、ということだろう。本気で言っているのか?来るにしてもそろそろ深夜とも云える時間だ。明日も仕事があるのにウチに来てどうするつもりなのか。真逆此処から出社する積りじゃないだろうな。なんて思いつつも、取り敢えず簡単に部屋の掃除をしていると、一時間経つ前に玄関の呼び鈴が鳴った。予想を遥かに上回る早さだ。扉の覗き穴を覗く時間も惜しくて、鍵を回し扉を開けば、案の定、自分と同じ視線の先にある青い瞳が目に入る。本当に来た、と漏らすと、彼は眉を顰めた後に無遠慮に私の頬を摘んだ。

「手前ェ、あれ程扉を開ける前に覗き穴を覗けつっただろうが」
「れ、れも」
「でもじゃねェよ。さっさと入れろ」
「ふぁい」

言われるがままに、中也を部屋の中に通して扉の鍵と鎖をきちんと閉める。部屋に戻ると、彼は仕事着の背広をハンガーに掛けているところだった。こいつはマジだ。本気と書いてマジと読む奴だ。マジで今日泊まるつもりだ。でも、正直言えば今会えてとても嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいで。頬に熱がこもるのはきっと、さっき摘まれたからではなく、久しぶりに中也に会えたからだ。
部屋の入り口で立ち竦む私に、ソファに座った彼は朗らかに微笑んで両手を広げ、ほら、と一言急かす。勿論それに断る理由などなく、私は吸い寄せられるかのようにその腕の中に飛び込んだ。背中を優しく叩かれ、じんわりと背中から熱が広がって行く。

「明日朝早い?」
「否、早くはねェ」
「お弁当作ってあげるね」
「お、いいな」

ぽかぽかとした体温の所為か、それとも中也と会えたことの安心感からか、眠気が徐々にやってくる。中也の肩口に眠気を紛らわせるように額を押し付けると、中也は背中を叩いていた手を私の頭に回し、優しく撫でながら、小さなリップ音と共に髪に、耳に、首筋に、唇を寄せた。
ミッドナイトブルーは、まだ明けない。