※「塞げない穴」と少しリンクしてますが殆ど風味です。



 ベランダや換気扇の下で隠れる様に吸っている事を、俺は知っていた。近くによれば、例え点けたばかりでもさも当然と灰皿に押し付けて消して何食わぬ顔で「どうしたの?」と口にする、その理由も何となくは察していて、彼女なりの配慮であり、俺の事を大切だとか大事だとかという言葉で丸めているが要は「子ども扱い」をしているのだと理解していたし、本人はそんな事など微塵にも考えていない事も、無自覚な事も知っていた。きっと、これからもそれが続くんだろうなと何となく漠然と思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。
 明け方というには少し早い時間だ。まだ空は夜から明けないものの、ぼんやりと明るくなりつつある。時間もなんとも云えない微妙なもので、二度寝が出来るくらいの時間はあるだろうと予想出来た。うっすらと開いた視界には、当然ながら霞が掛かって色合いでしか情報を得られない。しかし、隣にいた人間がいない事は分かった。瞬きを繰り返せば焦点が合って、その人物は窓際に腰を下ろしていた。

「依子」
「ん?…嗚呼起こした?ごめんね」

 呼ぶ声は微かなものであった。それでも彼女は此方に気づいて振り返る。指には紫煙を燻らせる一本の煙草。吸い始めたばかりの様でまだまだ長さはあるが、きっと、俺に気づいた事でそれは消えるだろうと思った。しかし、彼女は俺の予想を裏切り其の儘その一本に口を付け咥えた。
 その時、俺は初めて依子が煙草を吸っている所を見た。銘柄上短い一本を人差し指と中指で持ち口に咥えて、息を、煙をゆっくりと吸い込んでゆく。肩が少し上がって、今、あの細い身体に埋め込まれた肺が煙で満たされているのだと容易に想像が付いた。少しばかり動作が止まって、煙草をもつ指が、手が離れると薄い唇から紫煙が吐き出されていく様子を、じぃっと見つめていた。如何って事はない。他の喫煙者と同じ動作である。けれど、今までひた隠しにしていた依子が目の前でしているとなると、別のものの様に見えてしまう。

「…初めて見た」
「嗚呼、まあ、今まではそれなりに気を付けていたしね」
「どういう風の吹き回しだ?面倒臭ェって訳じゃねェだろ」

 率直にそう云えば、彼女はけろりと答えを返す。

「中也もう二十歳過ぎたし、いいかって」
「ほー。俺が二十歳になるまで待ってたってのか」
「うん。もう影響されるのもされないのも中也の勝手でしょ」

 揶揄う心算で云った言葉は、彼女には届いていないらしい。相変わらず糞真面目で莫迦正直な奴だ。職場であるポートマフィアには喫煙者なんぞごまんと居る。喫煙場所などは決められているようだが、吸ってる人間を見ないという事はまず無く、依子が気を付けた所で影響されるかされないかなんぞは微々たる問題だろうに、此奴はそれでも配慮をしていた訳である。これを笑わずにいられるだろうか。

「はっ、じゃあ俺が今吸いたいつっても手前は止めねェ訳だ」
「そりゃね」

 横たえていた身を起こして、依子の傍へとよれば、彼女は空き缶の飲み口へと煙草を軽く叩いて灰を落とし、また咥える。今度は唇の間へと咥えた儘、手を離し、近くにあった自分のシャツを俺へと手渡した。

「ん、」
「嗚呼、サンキュ」

 掛け布団から出れば、割と肌寒い気温だった。窓が開いているのもあるが、俺自体上を着ていないのもある。
 シャツに腕を通してから、依子の足元にあった小さなパッケージを取り開ける。中にはまだ数本入っており、その一本を取り出せば、彼女はライターを手渡す。けれど、それに手を伸ばす事無く、今出したばかりの真新しい煙草を口に咥えて、依子の咥えた煙草の先に、それの先を押し当てれば、燻る先の火種が、俺の咥えているものに灯る。依子は驚いた顔をしていた。その顔にしてやったりと、口角を上げる。

「嫌なモン覚えてきやがって…」

 ぼそりと呟く様に漏らしたそれは、俺の前では殆ど出てこない、依子の元々の口調だ。珍しい事もあるもんだと、見様見真似でその煙を吸い込むが、やはりげほげほと咽返る。

「ぅおえっ、…不味ィ」
「最初はそんなもんだよ」
「…手前は何時から吸ってンだよ」
「んー……。4年くらいになるかな」
「嘘だろ」
「うん嘘」

 明らかに考える時間が長くて突けば隠す気もなく返される。恐らくだが云った歳月の倍だろう。つまりは未成年の頃から吸っている訳で。

「説得力が無ェぞ手前」
「自分でも思った。でもほら、重症ではないからさ。今のところ」

 吸いたい時にしか吸ってない。ジト目と溜息を吐いて呆れて云う俺に、あっけらかんと云い放って、依子は紫煙を吐き出した。俺は吸う気になれず、そのまま空き缶に灰を落とした後、開け口に引っかける様に置いた。暫くの間、夜の静寂がこの空間を支配していた。

「前は、薬を飲んでた頃は多かったよ。今は中也がいるから少なくなった」

 紫煙を吐き終えて、依子は静寂を切った。

「…じゃあ禁煙しろや」
「夢じゃないかもね」

 そう笑うが、きっと、煙草は止める気はないのだろうなと思う。誰だったか、耳にしたことがある。女が煙草を吸うのは、男に影響されてであると。依子もきっと、その類であると何となく思った。今、夜が明け掛けた空を眺めながら紫煙を吐く依子の頭には、その男がいるのだろう。正直云えば腸が煮えくり返る程腹立たしいのだが、俺に其れを問う意味もなく、ましてや咎める理由もない。DomとSubという“パートナー”でなければ、恋仲であれば、彼女の深くを知る事も許されるのではないかと思うけれど、きっと、それは俺には出来やしないだろう。ピアスの時もそうだった。きっと彼女は答えてはくれない。彼女にとってこの首輪はパートナー同士というだけだ。自分のSubという目印以外に、この首輪には何の意味を持たないのだ。
 俺にとっても、彼女にとっても、この首輪は云わば糸に近い。きっと、このパートナー関係が解消されても、何方も困りはしないのだ。依子はDomだ。パートナーになりたがるSubなど山ほど居るだろう。対して俺も、組織にDomはそれなりに居て、部外者の依子よりも組織の人間の方が融通が利くから、其方の方がこれからを思うならば良いのだ。何方も困りはしない。寧ろ、解消をして別々のパートナーを見つける方が余程良い。けれど、偶々出会った俺たちは、偶々相性が良く、偶々似たような境遇で、偶々近い職を得ているから成り立っている。たったそれだけの事で成り立つこの関係は脆く簡単に壊れよう。それこそ糸のように簡単に。それを自ら断つことなど、俺には出来やしなかった。
 俺は既に、このDomを一人の女として好いてしまっているのだから。

「中也?」
「…おう」
「眠いでしょ。付き合ってくれて有難う。ベッドに戻ろうか」

 空き缶の中に、依子の咥えていた煙草が落ちる。俺の点けた煙草も一緒に落ちて行って、依子は煙を吐き出すと立ち上がり、俺の腕を取った。引き上げられるように俺も立ち上がれば、彼女は微かに笑みを溢して、窓を閉めると俺の手を引いてベッドへと誘う。
 抱き抱えられた事で依子のシャツから紫煙が香った。俺にとっては依子の香りだ。しかし、依子にとっては違う香りだ。その事実が、俺の胸奥を焦がしていく。苛々とするのは顔も知らない其奴に対してか、或いは依子に対してか、俺自身に対してか。
 夜はまだ明けない。慣れた暗闇と、冷えた身体に馴染んだ体温が俺の思考を奪っていく。朧気な意識と聴覚に依子の微かな声がした。
 その響きは、俺の名前ではなかった。