今日だけでも、恐らく二十回以上は彼女の唇を感じている。名前を呼んだ後に瞼や頬、鼻先に順々と寄せて、そして小さく音を鳴らすのが彼女のキスの仕方だった。
 依子は所謂“キス魔”だ。二人だけになると特に、俺の名前をせがむように呼んで、触れて、顔は勿論指先から腹や脚に至るまで此方が焦れるのなんてお構い無しに念入りに確かめるように唇を寄せるのだ。本人曰く、どうやら彼女の“Dom”としての性質がそうであるらしい。ダイナミクスの性質は、十人十色の言葉通りに個人差があり、依子はどうも自身の“Sub”に尽くす性質を持っているようである。かくいう俺も気位の高い性質を持つ“Sub”であるから、俺たちの相性が良いのも頷ける。
 そんな依子の性質でもあるし、自身の“Dom”に求められているのが行動として分かるから俺としてもそりゃ嬉しく、また焦らされると燃える方ではあるから別に気にはしてないが、こう、されるが儘なのも面白くはない。特に、依子のキスの仕方が触れるだけのものであるから余計にそう思うのだろう。どこか物足りなさを感じてしまう。そんなやり方では俺は満足できない。どうにか依子を焚きつけられないかと、依子の唇を甘受しながら考えていた。

「ん、中也?どうかした?」
「いや・・・」

 口ではそう云いつつも、止める心算は無いらしい。ソファの上で依子は俺を向かい合わせで抱いた儘、俺の髪や目尻、額へとキスを落としている。たった数分考え事をしていただけでもその回数はどんどんと膨れ上がっていくものだから、もう数えるのをやめようかと思った時だった。ふと、名案が浮かんだ。
 俺はにっこりと擬音が付くくらい綺麗な笑みを浮かべていたのだと思う。何故なら、依子がぴたりと動きを止めて俺を不思議そうな目で見下ろしたからだ。俺の様子を見て、何かを感じ取ったのだろう。「依子、」そう囁く声で色を乗せて呼べば、彼女は一度間を置いたものの、先程までと同じように俺の瞼へとキスを落とそうと屈んでくる。その唇に当たるのは、俺の瞼ではなく、俺の人差し指の腹だった。

「ん、なに?」
「駄ァ目だ。『待て』」

 依子が俺に命令するように、云い聞かせる。依子は言葉の意味を理解して、そして俺のしたい事を察してだろう、情けなく眉を下げて俺の顔を伺っていた。どことなく、その様子は餌を前に躾をされる犬を連想させられる。そんな依子の様子に微笑んで、ゆっくりと、柔らかな唇から指を離す。が、依子は俺の『命令』通りに動く事はなく、じっと離れていく俺の人差し指を見つめていた。

「良い子な。其の儘ちっと、じっとしてろ」
「………分かった」

 随分と長い間があったが、絞り出すような声で了承の言葉を吐く。恨めし気に見下ろす瞳に笑いがこみ上げてくるのは仕方のない事だろう。依子が俺に『命令』するならまだしも、俺が云った言葉なのだ。簡単にそんなもの覆せるだろうし、無視する事だって可能だろうに、彼女は律儀に俺の云った言葉を、命令を従順に守るのだ。その様子に悪戯心がむくむくと沸き立つのもまた、仕方のない事だ。
 本来俺の描いた筋書きならば、ここで風呂でも入って、或いはコンビニにでもちょっと足を延ばして我慢させてやろうと思ったのだが、こう従順な姿を見せられては違う筋書きを思いついてしまう。依子の頬へと手を伸ばし、色味の無い白い肌を手の甲で撫でる。撫でている方の目を気持ちよさそうに細め、もっともっとと擦り付けられる前に手の甲から指先へと変えて輪郭をなぞり顎の下を爪先で軽く引っ掻くように掻いてやれば、それも気持ちが良いらしい。小さく声を漏らし喘いだ。

「ん、ぁ…」
「ふは、気持ち良いな?」
「んん・・・。中也ぁ」
「駄目だって。此れからだ」

 泣き言を云い出す前に、体勢を変えて俺が依子の上に膝立をする。そうすれば、俺が依子を見下ろす形となって、依子の肩に腕を置いて、依子がいつも俺にするように、瞼と鼻先に唇を落とした。

「二十八回」
「ん、なにが?」
「今日、手前が俺にキスした回数」
「…嘘だぁ。そんなにしてないよ」
「してンだよ。今二回したから、・・・後二十六回な」
「えっ」
「頑張って我慢出来たら、ヤろうな」

 微笑んでやれば、依子は顔を硬直させて蒼白とさせる。どうやら俺が思っていたよりも、依子にとっては死活問題らいし。そんな事などお構いなく、俺は依子の頬に唇を寄せた。音付きで反対側の頬にもしてやって、それから顎へ首へと降りていく。首筋には少し強めに吸い付けて鬱血痕を何個か散らしてやれば、頭上の声は小さく喘いで、俺の腰をさせる手にも力が入る。これは愉しい。愉快だ。くつくつと笑みを溢しながら開いたシャツから覗く鎖骨にも何度かキスをして、胸元にも吸い付きながら、力の籠る依子の腕に手を添えると、びくりと震えて固まる。指先でなぞるように手へと移動させて重ねれば、おずおずと、何処か遠慮がちに手と手が、指と指が絡んで、其れを持ち上げて口元へと持ってきて、手の甲に、そして絡む指に、依子に見せつけるように唇を寄せる。その時の顔と云ったら!

「なぁんだよ。物欲しそうな顔しやがって」
「は、ぁ。ちゅうやっ・・・」
「まだだろ?ほら、これで何回だ?」

 唇を軽く噛んで、考えている依子の、唇の端にキスをしてやれば、「…十八」と回数を云うが、それは俺のしたキスの回数よりも多い。

「騙ってんじゃねえよ。五回追加だ」
「っ!?ちが、」
「違う訳はねえだろ。はは、あと二十二回な」
「そんなぁ…」

 肩を落とし、俯く依子の頭の天辺に唇を寄せて、「あと二十一」とカウントダウンをしてやる。染まる耳にかぷりと噛みつけば、彼女は忌々し気に俺を見上げ睨んだ。

「それ、回数に入ってる?」
「いーや。ノーカン」

 平然とそう返せば、言葉なく睨みつけて来るだけの彼女に声をあげて笑った。

 それから、十分過ぎる程の時間を掛けてゆっくりと焦らしながら、稀にノーカンの行為も含めてひとしきり遊んだ。依子の衣服はほぼはだけていて、ソファに俺は寝転がって依子の首に腕を回して引き寄せる。目下、俺を見下ろす依子の瞳はどろどろに蕩けて熱く情欲が蠢いているのがよく分かる。その瞳に俺の頭の中も痺れていて、互いの本来の立ち位置を欲せざる負えなくなる。依子は支配する側に、俺は支配される側に。この遊びに焦らされているのは俺も同じだったという訳だ。
 残る回数はほんのわずかだ。たった一回。する場所は最初から決めていて、そこだけは頑なに触れないでいた場所である。

「依子」
「中也、ね、早くッ・・・」

 甘く優しく、名前を呼べば彼女は焦がれて俺を急かす。此処迄きたのならもうないものと同じだろう。俺の唇のみに視線を注いで請う姿は、本当に、従順な犬そのものだ。嗚呼本当に、愚かな俺の“Dom”だ。
 首に回していた腕、手を依子の後頭部に回して優しく撫でる。そして、髪の間に梳くように指を絡めて、ゆっくりと、最後まで焦らして、顔を寄せあう。唇と唇が触れるまで、あと数ミリ。そこで止まって、じっと、互いに視線を合わせていた。荒い息遣いが重なる。熱を孕む瞳の中には、俺しか映っていない。それが耐えがたく愛おしい。きっとそれは、依子も同じだろう。
 焦れた数ミリの差が埋まった。重なった唇は秒にも満たないほんの僅かな時間だった。けれどそれは確かにキスであり、俺の仕掛けた“遊び”の終わりを告げるものだ。

「お利口さん。もう『良い』ぜ」

 その瞬間、依子は身体ごと動いて俺の唇に噛み付いた。俺の身体をしっかりと押さえつけて、何度も何度も、貪るように口を合わせて、俺の口内を荒し、舌に吸い付く。そんな依子の身体に縋りついて、依子に応えながら頭の中でほくそ笑む。此奴は俺の“Dom”であり、俺の犬だ。従順に俺の云う事だけを聞く、俺が躾けた俺の犬。まだ時間はたっぷりあるのだから、次は何を躾けようかと考えたが、しかし、先ずは『ご褒美』を与えるのが先だろう。飴と鞭の使い方が上手く釣り合ってこそ、躾は上手くいくものだ。存分に俺の味を覚えると良い。そして俺なくしては生きられないほどになってしまえ。
 もっともっとと強請る様に、依子の舌に自身の舌を絡めてやれば、依子は一瞬驚いて目を見開いたものの、俺の舌に甘噛みをして俺の身体を弄り衣服を脱がしにかかる。緩んだ身体の拘束に両手が使えるようになって、俺は依子の腰を抱き寄せる。

「んぁ、中也、手」
「ん?・・・嗚呼、ほら」

 腰を撫でていた手を片方やれば、依子は嬉しそうに重ねて、指を絡ませて繋ぐと、俺の手の甲に唇を寄せた。そして歓喜の滲む目を細め目尻を緩ませる。

「好きだよ。触れられない事が惜しい程に」

 目を見開く俺に、依子はうっそりと微笑んでまた髪に額に瞼にと、唇を寄せては言葉を重ねていく。嗚呼この野郎。やられるだけじゃ終わらねえってか。どろどろに溶かすように言葉を並べる依子に、今度は俺が白旗を上げる事になるのは計算違いだったが、これはこれで燃えたので最終的には良かったと思いたい。