生きとし生けるものには、“差”というものが、生まれながらにして存在する。頭が良いとか悪いとか、感覚が鋭いとか鈍いとか、容姿が美しいとか醜いとか。遺伝子の設計図とも呼ばれる“DNA”とかいうものに刻まれた性質はそれだけではなくもっと確固したもの、性別、男と女という“差”と、ダイナミクス、DomとSubという“差”も刻み込まれている。
“本能による主従関係”であるダイナミクスは、良くも悪くも世間、社会に大きな影響を与える。時の権力者は総じて“Dom”性で占められており、国を担う政治家は勿論医師、弁護士、実業家や資産家など社会的地位のある人間も殆どが“Dom”性である。それはその性に生まれたが故というより、Domと云う性は天性にそういった力を持っている、の方が正しい。勿論中には前者のようにDomという性に生まれたから、そういった地位につけるものも少なからずはいるのだが、その数は実は微々たるものだ。
何処かの国の、発音しにくい名前の歴史学者によれば、遥か遠い昔は男女の差しかなく、女という性に生まれたからには社会への進出を望めず虐げられてきたらしいが、むしろそれは今の世の中では漫画か小説の創作世界で、今の世の中、最も抑圧されているのはダイナミクスによる“Sub”。つまり、“Dom”によって支配される側の人間だ。奉仕者、或いは従者として抑圧されるSubの社会的地位向上を求める運動も其処彼処で起きていたり、所謂弱者である彼、彼女らに手を差し伸べる慈善事業や論者も多くいる。
私が何故そんな一般論を述べているのかというと、その先天的な“差”に不便を感じているのは、何もSubだけの話、ではないからである。

身体が鉛のように重く無気力で低迷する思考は、いくら先天的なものとは云え慣れる事など出来はしない。そうだよなそりゃ来るよな。来なきゃ私は一体何だ。何に分類されるんだこの野郎。そう心の中でもやもやとした暗雲たる抑鬱を自分自身に八つ当たった。
ダイナミクスという性におけるDomには、ある一定の年齢を越すと抑鬱、自律神経の乱れによる体調不良など、様々な症状が思考と身体を蝕む。理由は簡潔明瞭。Domとしての本能。Subを支配したい、という欲求が解消されない為である。食欲や睡眠欲、性欲と同じく、Domにのみ存在するこの欲求は、解消されない事にはずっと、胸の奥にじりじりと渇きにも似た燻りのとして濁って溜まっていく。これが限界に達すると、諸症状が出始め、解消の為に偶々見かけたSubに襲い掛かる、強制的な支配をする、など、男女における強姦紛いな行為に及んでしまう。その為、未然に防ぐ為に多くのDomは早い段階でパートナーとなるSubを見つけるか、病院等の処方で抑制剤を飲む事を義務付けられていた。御察しの通り、私のダイナミクスにおける性はDomで、パートナーがいない為、抑制剤を飲む事で症状を緩和させている。
怠い身体を何とか起こして、机上の紙袋を漁り、薄い桃色のカプセルを2つ、舌の上に乗せて近場にあったペットボトルの水で流し込んだ。暫く呆けて天井を眺めていると、徐々に頭が晴れてくる。効能が効いてきた事に安堵して、私はまず、顔を洗う為に洗面所へと向かった。鏡に映った見慣れた顔は、晴れた思考にそぐわずどんよりと曇っていた。

私は現在、ヨコハマという街に住んでいる。
日本の無法地帯、ヨコハマ。魔都とも呼ばれるこの街は、大戦終結後に各国軍閥が流入し、治外法権を振り翳し自治区を築き上げだ為に出来上がった、無法の都市である。先の大戦で戦争孤児となった私は行く当てなくこの場所に辿り着き、血反吐の出る思いで生き繋いで現在に至っていた。今は特殊清掃アルバイトをして給金を頂いている。払いの良いアルバイトではないと、それなりの値段がする抑制剤を購入する事が難しい為、そして何より、確固とした戸籍や身元がない私にはそんなアルバイトしか雇ってくれる所がない、という理由がある。
此の儘、死ぬまで働くか、それともその内何かの拍子で殺されて幕を閉じる人生だろうなあ、くらいにしか思っていなかった日々であったが、事実は小説よりも奇なり、なんて何処やらの国の人の言葉の通り、突然そんな日々は覆るものであると、私は後に知る事となる。



特殊清掃の業務は、依頼者からの依頼があって業務を行う。私の勤める清掃業務店では、民間からの依頼、多くは賃貸の大家であったり仲介業者が自殺した賃貸契約者の後処理など、を請け負ったり、所謂闇組織からの依頼、云わずもがなしっちゃかめっちゃかした後の処理、を請け負う。大半は後者の依頼が多く、固定の組織から大口の依頼を受けることが大概である。少し前はその組織、ポートマフィアの首領がそれはもう大盤振る舞いと云う程に暴虐の限りを尽くしていた為、うちもその後処理に依頼が山ほど入っていて、寝る暇所かご飯を食べる暇、水を飲む暇すらも無い状況が何ヶ月も続いた事もあったが、昨年、その首領が病に伏し亡くなられて、新しい首領が立てられた。どうやら此度の首領は考え方が違うらしく、割と今の所は、多少火の手が上がり駆り出されることはあっても、その数ヶ月間と比べればかなり少ない方であると思う。
その日は珍しく、ポートマフィアからの依頼だった。私と、同期のアルバイト、先輩、の三人で赴いた指定の場所、あるアパートの一室には黒い服の男たちと、よくお会いする私とそれほど変わらない年だろう着物の女性と、その傍には見たことのない少年がいた。

「どうも、いつもご贔屓に有難う御座います。ご依頼頂いた清掃業務員です」
「嗚呼、相変わらず早いのう。あれの始末を頼むぞ」
「それでは始めさせて頂きます」

先輩のその言葉で、車から袋だ解体道具だ清掃道具だを取り出して部屋に転がった無残な姿の男に取り敢えず揃って手を合わせる。私たちは清掃に来ただけで貴方とはなんら関係のない人間ですので逆恨みはやめて下さいね、という意味を込めているが果たしてそれが通用するかは知らない。それでもやらないよりはマシだろう。
よし、気合いを入れるような先輩の声で頭を上げて清掃を始める。まずは遺体を死体袋に入れ移動させ、そして清掃道具を使って部屋の中を掃除する。遺体の輸送は先輩が、清掃を私と同期アルバイトで行う事に決めて、まずは三人がかりで遺体を袋に詰める、その為に伸ばした手は、何故か真っ赤に濡れていた。

「っ!?」
「離れろッ!」

先輩の声、そして身の危険を察知して後方に飛び退く。不思議な光景だ。血走った二つの眼だけが、空間上に浮いているように見える。どうやら遺体は囮で、近くに異能を持った仲間だろうその男が近づく人間を待っていたようだ。どういう異能なのかはさておき、向こうの計画としては、ポートマフィアの人間がいなくなり、清掃業者である私たちを皆殺しにして逃げるつもりだったのだろう。しかしそれは、マフィア側も同じだったようだ。
飛び退いた私とは反対に、小柄な体躯が飛び込んでいく。明るい赤茶の髪が暗闇に浮いていたから、それが先程着物の女性と一緒にいた少年だと分かったが、その姿を目で追う前にドン、と強く叩きつける音がして、部屋の中央、元あった遺体に折り重なるような形でもう一つ遺体が出来上がっていた。正に、瞬きの間の出来事であった。

「死体、もう一つ追加だ」

死体を足蹴りにした後、少年は此方に背を向けたままそう云う。

「…袋、もう一つ持ってきます」
「お前ついでに手当てしてこい」
「お言葉に甘えます」

多少のアクシデントはまああるもの。作業の手順を組み直し、袋を取りに行くついでに車内にある救急箱でぱっくりと割れた掌の手当を行う為にアパートの影へと停車している車の元へと向かい、ごそごそと車内を漁っていた。鋭利なもので切られた掌の傷は、出血が多く、また片手でやっていることもあって上手く出来ず不恰好ではあるが、まあ、良いだろう。使えなくは無い。手のひらを開いたり、閉じたりと感触を確かめながら、予備の袋を取り出して部屋に向かう。途中の階段、踊り場の所で、先程の赤茶の髪の少年がぼう、と何処かを眺めていた。

「あの、」
「あン?」
「先程は、有難う御座いました」
「…うちの目的はあの男を誘い出す事だった。アンタは餌にされただけだ」
「それでも、私が助かったのは事実ですから。こういう事やってると、まずああやって死ぬ事が多いので」
「…そうか」
「ええ。だから、」

有難う。そう口に出すと、その少年は大きく目を見開いて驚いた顔をした。なんだ、礼も云わないような人間だと思われていたのだろうか。固まる少年を前に不思議に思ったものの、今は仕事中である。それでは失礼します、と頭を下げて階段を駆け上がり部屋へと戻れば、先輩と同期が殆どの作業を終わらせていた。そんなに時間が掛かっただろうか。申し訳なく思い袋に死体を入れるのを手伝おうとしたが、二人から制された。手の怪我なら、余計に雑菌などで化膿する場合があるから、今日はお前が運転手な、と云われてしまっては、どうしようもない。潔く死体からは手を離したが、それ以外の、清掃道具なんかはまとめて持って車に積み込み、先輩から車の鍵を受け渡された。
その時、背後で車の音がして振り向く。黒塗りの車。嗚呼、ポートマフィアの方々の車だ。その後部座席は黒の濃いスモークが掛けられている。そこに誰がいるかは分からないが、そこから見ているような気がして、どうも目が離せなかった。

「どしたー?なんかいた?」
「…いいや。何でもない」

車に乗り込んだ同期の声ではっとした。中の人に睨みつけられていたらどうするんだ。死ぬわ。同期も先輩も特に気にしていないようだったので適当に返し、運転席に乗り込んだ。



その日の勤務を終えて家に帰り、小狭いワンルームの真ん中に置かれた、唯一の家具であるソファに腰掛けた所で、私は自分の異常に気付いた。掌の傷はじくじくとまだ痛むが其方ではなく、何時もなら24時間経つ前に抑制剤の効果が薄くなって頭痛や吐き気などに襲われると云うのに、今日はそれがない。全く、と云う程ではないものの、何時もよりずっと、精神面も身体も楽なのである。否、体力勝負の仕事でそれなりに身体は疲れてはいるが今までずっと苛まれてきたあの何とも言い難い、例えようのない気怠さやもやもやとした焦燥感や負の思考が現れない。一体何故かと考えが至る前にゆっくりと瞼が落ちていく。微睡む思考と暗闇の中で心当たりのある記憶を辿るが、あの赤茶の髪色だけしか思い出せなかった。