まるで赤子だと、芳川は思った。
膝の上に座って、脚を折り畳み服をしっかりと掴む、“だっこ”姿は、どうみても赤子である。しかし自身にもたれかかる体躯は芳川よりも少しばかり小さいと云うのに、その重さは仕事で持つ袋とそれ程変わらないように思う。細身ではあるから、きっと筋肉量なのだろうなあ、なんて余所事を考えながら、小さな背中を規則的に、それこそぐずる赤子をあやすように叩いていれば、「ん、」と小さく声を漏らして芳川の胸元に擦り寄った。その明るい赤茶の髪の上に顎を置いて芳川は言葉を紡ぐ。

「『良い子』、『良い子』。大変だったね、疲れた?」
「んぅ、……ちょっと、だけ……」
「そう。『頑張ったね』、『偉いね』」
「ン…………。依子、」
「…中也?」
「…ふ、なんでも、ない、」

中原が芳川の名前を呼ぶのは、この状態、 サブスペースに入っている時のみである。芳川が同じように名前を返してやると、やけに機嫌が良くなって、擦り寄せた胸元にまた頭をぐりぐりと押し付けた。何が彼を満足させるかは知らないが、本人はそれはもう幸せそうであるし、芳川自身もそんな状態の中原に対して悪い気はしないので、されるが儘にしていた。
どろどろに蕩けた思考は、其の儘表情にも現れている。普段はきつく吊り上がる青い双眼もこの時ばかりは蕩けて緩み、頬は上気し桃よりも遥かに濃い赤みを帯びている。そんな様子の中原に、芳川も“本能”を満たされていくのだから互いにお相子様なのだろう。

ひょんなことから、特殊清掃のアルバイトをしていた芳川はこの目下どろどろに蕩けているSub、中原中也と“擬似的なパートナー関係”を結ぶことになった。理由は、どうやら芳川のDom性が彼のSub性と相性が良い為で、互いの欲求を満たす利害関係として、この関係を結ぶ事になった。
芳川にとっての利とは、“本能”を自分の意思で操る“練習”を、中原で行う事であった。中原とこの関係になるに至る前、芳川はある人物から呼び出しを受け質疑応答をされた際に、彼女は自分自身の薬の投薬量が異常であった事を知る。とある筋から購入していたDomの抑制剤は、医師の処方は勿論、薬剤師の管理下でしか扱えないものであり、一般的な抑制剤ではない事。そして自身の摂取量が通常の倍であった事。だからこそ、抑制剤を使用しているにも関わらず不調が起こっていた事を知ったのだ。藪な医者にかかったものだねえ、とその人物は冷ややかに嗤った。返す言葉もなく医者を変える事を決意した芳川であったが、其処で彼女はこの話を持ち出されたのだ。君自身が、薬に頼らずその本能を飼い慣らせば良い。丁度、うちにはパートナーの居ないSubがいる。彼と擬似的に組んでみないか、と。成程、確かにそれは良い。その通りだ。飼い慣らして仕舞えば、意図的に本能を抑制出来れば、それで万事解決だ。こうして、芳川はその人物の話に乗り、中原と擬似パートナーを結ぶことになった。

不定期に中原本人から連絡があり、指定された場所へ赴くのが決まりで、中原と“擬似パートナー行為”をしていることも口外しない事、と書類を通して誓わされるという徹底振りであった。元の特殊清掃の事務所には、別のアルバイトを始めたと云い、現在掛け持ちでバイトをしている事になっている。と、云っても、自分の懐には全く金は入らず、多少の飲み食いと宿泊ができるだけなのだが。
今日も本人からの呼び出しを受け、芳川は清掃の仕事を終えた後に指定のホテルへ向かった。既に本人は部屋にいるらしく教えられた番号の部屋を受付で聞いて、其処に着き扉をノックすれば、少し間を置いた後に遠慮がちにゆっくりと扉は開かれる。扉の隙間から上目で伺うように見上げるその様子は、何処か怒られる前の子どもを連想させられるが、そうではない事を芳川は知っていた。Domの居ない中原は、この“行為”に対してあまり乗り気ではない。しかしストレスを発散しなくては、特にSubである中原には不都合が多いから仕方が無く、“行為”を拒絶する事が出来ないのである。最後に会ったのは二、三ヶ月前だったから久方振りの“行為”で、だからこそ、珍しくホテルの一室なのだろうなあなんて思いながら、彼女は「入るよ」と一声かける。中原はぴくり、と肩を震わせた後芳川を睨んだものの、何も口には出さず、ただ頷いて部屋の奥へと踵を返した。毎回同じく変わらないその様子に、芳川はつい、ふっと笑みを漏らした。


元々、芳川は口数が多い方ではない。仕事で付き合いのある人間ならまだしも、友人が多い訳でもなく寧ろ殆どいない彼女にとって、最初の入り、Subの緊張を解かすことは大変苦戦するものであった。主に聞き手に回る事の多い人間性である事もあり、そして何より中原が自分より年下という事もあって、何を話題に出せば良いかも分からない。当たり障りのない最近のニュースだとか、天気だとか、当初はそんな話をする事ばかりであったが、最近は、主に芳川の清掃業の話をするようになった。相手は抑もポートマフィアの人間であり、その手の話は出来るし、本人の話によると、彼はまだ此方の世界、裏世界に入ったばかりであるという。清掃業での規約で詳しい話や内情は云えないものの、殺害現場の話であったり、死体の損傷から使用された武器等の特定をするコツなんかを話すと、興味があるようで食いついてくる。そして何より、二人とも孤児の出という事もあって、その手の話となればなんやかんやと話が出来て、その中にいくつか簡単な『命令』を入れれば、中原をサブスペースへと持っていく事が出来た。
ちなみに、芳川と中原は相性が良い事もあって、余計に持っていく事が容易いのだが、互いはそれを知らないので、芳川はサブスペースに入った中原をみる度に、こんな掛かり易くて大丈夫だろうか、と心配している事を中原は知らないし、逆に中原は気位の高い自分をここまで落とせるのだから、芳川にはパートナーは居ないにしろ、固定のSubがいると思っている事を芳川は知らない。


簡単な会話と少しの命令でサブスペースへと入った中原をソファの上で抱きかかえて、芳川は一息つく。中原までとはいかないものの、芳川もDomとしてSubを管理下に置く事で本能の欲求を発散させている。庇護したい、褒めてあげたい、どろどろに甘やかしたい。そういったDomの本能が、Subに対して余す事なく注がれてこそDomの欲求は満たされる。自身に対して何の疑いもなく身を任せる中原の今の状態は、正に芳川の本能をなみなみに満たしていた。
横抱きで中原の背を叩いていた手を、腰へと回し向かい合わせになるように体勢を変えれば、中原は芳川の背へと腕を回す。その顔は随分と嬉しそうで、喉奥でくつくつと笑いながら芳川を見上げた。蕩けた青い瞳、薄赤に色づく頬と湿った薄い桃の唇は真白の肌に良く映え、その顔は酷く艶めかしい。そこらの娼婦どころか高級遊女にも匹敵するだろう妖艶さである。ぴたりと固まる芳川を不穏に思ったのか、悩ましげに眉を下げ掠れた声で芳川を呼んだ。

「依子……?」
「…何でもないよ。それより眠い?瞼落ちかかってるけど」
「…ねむくねえ」
「嘘。ベッド行こうか」
「依子は?」
「……分かったよ。一緒にね」

芳川がそう答えれば、中原は笑みを濃くして肩口へと額を押し付け、背に回した腕に力を込める。連れて行けという事だと理解して、これじゃどちらがSubか分からないな、と心の中でぼやき、中原の身体を持ち上げてすぐ近くにあるベッドの上へと転がした。幼子のようにはしゃぐ姿はこの状態に入る前に見る立ち振る舞いや口調からは想像できない、本来の歳よりも少し子どもじみた様子だ。そんな中原の横に芳川自身も体を横たえると、中原が芳川の腰に腕を回ししっかりと抱く。明るい赤茶を梳くように撫でれば、ゆっくりと、その瞼は閉じて身体の力が抜けていく。微かな寝息を聞きながら上下する肩を暫く眺めていた芳川だったが、自身も清掃業の後という事もあり同じく瞼が下がっていく。互いの鼓動の音とそれに連なる温かさがじんわりと胸の内へと溶けていく気がした。



芳川が目を覚ましたのは、微かな音が耳に入ったからだ。覚醒しきらない意識で身を起こせば、背中がぽきりと音を鳴らす。欠伸を一つ漏らした所で、死角にある扉が開いた。そこから出てきたのは赤茶の髪と青目の少年。同じくこの部屋に宿泊した中原中也だ。そこにあるのは浴室なので、昨夜入れなかった風呂に入っていたのだろう。芳川が起きたことに気づいて、長い沈黙の後、小さく声を掛けた。

「……よお」
「ん、おはよ。今何時」
「四時」
「三時間半か…。流石によく寝た」

首を回してこきり、と音を鳴らし数メートル先で立った儘の中原に視線を上げる。ばちりとあった視線に動く事なく呆けた様子にどうかしたのかと、「中也?」と声を掛けると、彼は急に顔を赤く染め上げ手に持っていたタオルを芳川に向かって投げつけた。突然の事に、しかし、毎度の事にそのタオルを受け止めた芳川はしまった、と大きく溜息を吐いた。

「ッ〜〜〜〜!!五月蝿え!呼ぶな!」
「ごめんって、悪かったよ」
「喋んな!!」
「(どうしろと)」

理不尽に理不尽を重ねたような態度だが、これは何時もの事である。
中原は、サブスペースに入った時と平常時の差が激しい。常時、Domの中で気を張っているから余計に、Subの本能を解消している間は他のSubに比べてずっと本能に忠実になってしまうようで、本人はそのギャップに未だ慣れずいつも、このように芳川に当たり散らすのであった。芳川はそれを知っているから特に何か思うことはないのだが、本人はどうもそれを引き摺っていて一通り落ち着くまで相手をするのも、芳川の、所謂Domの仕事だと思って付き合っている。

「糞っ、なんで俺があんな、」
「……取り敢えず風呂入っていい?」
「勝手にしろや!!」
「勝手にするわ」

ベッドの縁に腰を下ろし首を垂れる中原にそう云って芳川が浴室へと向かう。扉が完全に閉まったのを髪の間から横目で確認して、葛藤を抱えた儘にベッドの上へと仰向けに倒れた。少しすると、水音が聞こえてくる。その音ですらも鬱陶しくてごろり、と体勢を横向きへと変えれば、ふと、嗅ぎ慣れた匂いがした。胸の奥を満たされる心地、そして何よりふにゃり、と力が抜ける、安心する匂い。とろりと溶け始めそうな思考に、これは一体何だったかと記憶を巡れば、昨夜の様子が頭に過ぎる。白いYシャツから香った匂い、自身の背を等間隔で優しく叩く振動、やや低い甘い声が響かせる自身の名前。

「ッだーーーーー!!!糞っ……!」

飛び起きてまた浸りそうになる感覚を無理やり剥がし頭を抱えた。本能とはいえ、こんなものを中原は今まで味わった事がない。かつて羊に属した頃は無縁の物であった。そして、ポートマフィアに入った今も、これは知り得ない物であった、筈だった。しかし一度知ってしまえば、もう知らなかった頃には戻れない。仄かな香りが、触れる暖かさが、甘さを持つ言葉が、見下ろす眼が、感覚で“それ”を欲してしまう。しかも、あの状態に入っている間は、心でさえも欲してしまい引き戻された後もあの心地よさが忘れられないのだ。だから、定期ではないにしろ“あの感覚”を求めてしまう。まるで薬のようだ。こんなもの自分ではないと分かっているのに、やめたくともやめられない。やめようと足掻けば足掻く程、その欲求は大きく膨れ上がり、また再度求めてしまう。一体、自分はどうすれば良いのだろうか、と中原は今回も頭を悩ませながら唸って、次こそは、と意気込むのだが、“次”と考えている時点で既にどうしようもない事を、彼はまだ認知していないのであった。