やけに傷んだ髪だ。短い癖にぎしぎしとしていて指通りが悪い。梳こうとしても途中で直ぐに引っかかるし、ざらついた毛先ははっきり云って痛い。その理由は初めて見た此奴の頭の天辺、生え際を見ればすぐに分かる。際の部分は全く別の色だった。これは染め髪なのだ。かつて共に過ごした彼奴のような髪色だとは思ったが、先天的な色だと思っていたものは実は仮初めであるらしい。俺が今まで一緒にいた、彼奴らの中にも染めている奴はいたから抵抗は無いものの、しかし、ここまで髪が傷むとなるとかなりの年月をこの色で過ごしていると窺えた。

此奴との“行為”はもう両手の指では足りない程になった。いつもなら、さっさと風呂に入ってしまうのだが今日はなんだかシーツの中から抜け出ず、隣で微動だにしない女の顔を眺めたら、目の下に薄く在る隈にほんの少しばかり、心が痛んだ。
首領交代でやや弱体化しつつあるマフィアは、その勢力拡大と向上の為に暗殺や揉め事処理など仕切無しに活動していた。それに伴って、清掃を生業とする此奴ら“特殊清掃”も活動量が多くなっていた。裏の事は表に出す事はできない。裏の出来事を何も無かったように処理するのが此奴らの仕事である。裏が激しく活動すればする程、此奴らの仕事も多くなる訳で、つまり、今は飯の間、寝る間も惜しんで仕事に精を出している繁忙期だと、珍しく疲れた口調で話していた昨夜の事を思い出した。
そんな中、こうやって時間を取らせる事にほんの、ほんの少しだ。罪悪感が出た。本来なら合間の時間で身体を休めたりやりたい事に使うべきだと云うのに、こうやって呼び出して“ストレス処理”をさせている事に、少しばかり申し訳なさが出たのだ。互いの利害関係なのだし、清掃業の繁忙期なんぞ知るかと一蹴してやれば良いのだが、流石に昨夜の、俺を抱き締めた儘大きく息を吐く様子を見たら、言葉は喉で止まってしまう。それに今回の呼び出しは、少し違う期待もあったから、余計にそう思えたのかも知れない。

「ん、………?」

女特有の、長い睫毛が震え重い瞼が開かれる。
ぼんやりと揺蕩う意識を表す焦点の定まらない瞳は数度の瞬きで光が灯る。と云っても、此奴の目に入る光は仄かなもので、果たして本当に覚醒しているのか分からない気怠げな目には変わりないのだが。

「……めずらしいね」
「あ゛?」

ゆっくりとした瞬き後、朝特有の掠れた声で云う。何がだと、意味を含んで睨みつければ、何が面白いのかは知らないが微かに笑ってみせた。

「中也から触れるなんて、珍しいと思って」

ぴたりと手が止まる。
確かにそうだ。『命令』以外では、俺は此奴に触れる所か近付いた事も無い。
意味を理解して、そして自分のしていた事を振り返り恥ずかしくなって髪を梳いていた手を引っ込め、代わりに足蹴りを腹に決めてベッドから突き落とした。

「んぐッ!?」
「っるせェ!!!」
「った…。急に変わりやがって…」

シーツを剥ぎ取り包まって身を反転させ背を向ければ、ぼやきの呟きが耳に入る。手前がンな事云わなけりゃ良いんだよど阿呆、と心の中でだけ反抗して、目に入った卓上の時計がいつもよりも遅い時間を指している事に気付く。俺は半休を貰っているから良いが、今蹴落とした奴は先程の理由で繁忙期中だ。こんなにゆっくりとしている場合ではない筈だろう。

「手前こんなのんびりしてる場合じゃねえだろ。さっさと仕事行けや」
「ん?嗚呼…。今日は休み取ったから良いよ」
「は?休み?」

何云ってんだ此奴。思わず先程の事も忘れて身を起こして振り向けば、其奴はベットの縁に顎を乗せて小首を傾げた。

「そう。だからここ一週間予定詰めまくって、」
「は、ぁ?」
「嗚呼そうだ。誕生日おめでとう」

誕生日、知っていたのか。昨夜もいつもと変わらない様子で、特にそんなそぶりを見せないからてっきり知らないか、もしくは忘れていると思っていた。それかそう云う事に執着がないのでは、と。もしかしたら、微かな期待で祝ってくれるのではと期待した自分がいてこの日を選んだのだが、当てが外れたと割と落胆していたのだ。けれど。
目を丸くする俺に其奴は微笑むと頭を上げてベットに腰掛けて、俺に向けて手招きをして『おいで』と命令するものだから、否、命令ではなかったのかもしれない。けれど、俺は招かれる儘に依子の元へと這って、いつもの定位置。膝の上へと横抱きに座った。そうすれば、依子は俺の髪を梳くように撫でる。

「祝ってあげないとなあ、とは思ってたんだけど、何してあげれば良いか分からないから、とりあえずお休み取って中也の用事にお付き合いしようかなって」
「…俺半休しか取ってない」
「じゃあ仕事迄ね。それ迄何でも付き合うよ」
「何でも?」
「いいよ」

何でも良い。何をしようか。
やりたい事やしたい事は山程あるのに、依子と一緒に居られるのなら、と思うとどれにしようかと迷ってしまう。あれやこれやと考えつくものを口にしようとしても、別に依子と一緒でなくとも出来ることばかりで、折角の機会なのだからもっと違う事をしたい。でもそれが浮かばない。
きっと、そんな心情が顔に出ていたに違いない。依子は珍しく声上げて笑って、助け舟を出すように選択肢を寄越す。飯か風呂。まず最初にやるべき事だ。取り敢えず風呂に入ってからチェックアウトをして、朝飯を食いに行く。それから考えようと二人で決めて、最初に俺が入ってくると依子の膝から飛び降りて浴室へと向かった。

それから二人で朝飯を食いに行って、予定を決めて、遊びに行って。思えば、“処理”以外で時間を共にするのは初めての事だった。甘いもの、特に生クリーム系統が苦手な事や、“可愛い”のセンスが俺の知ってる女と明らかに違う事も初めて知った。むず痒くなるくらい俺に対しては丁寧に扱う癖に大概のことが大雑把なのも、存外よく笑うのも、たった数時間“処理”で過ごしている時間だけでは分かり得ない事ばかりで、こんな風に人と過ごすのが“楽しい”ものだと、久し振りに味わったと思う。俺の仕事が始まる時間が近付き、準備もあって早くに別れたが、それでも、今日程充実した日は無いだろう。今まで訳の分からない年上の女としか思えなかった依子の事を、少しだけ信用する気になれる日だった。