かぷりと食らい付いた耳には、多くの穴が開いていた。今初めて気がついた訳じゃない。髪に隠れているものの、それは大分昔から気がついていて、装飾品の為の穴であると重々承知ではあるものの、何となく、その穴を見る度思うところがあった。

「…俺も開けてェな」
「ん…?何を?ワイン?」
「違ぇよ。ピアス」
「えっ」

いつもの如く気怠げな顔から打って変わり酷く驚いた顔をするものだから、俺も驚いて目を見開いた。
今日は久しぶりに会う日だ。依子のソファしかないあの部屋ではなく、俺の家で、曰く好物だと云う鶏の唐揚げを強請られ、定食を一式作って一緒に食べて風呂も済ませてじゃれあっていた時、ふと目についたのが穴の多く開いた耳だった。耳たぶを始め耳の縁に連なるように開いた穴は骨を貫通しているものもある。それを見て、そう云えば自分は開けた事がなく、興味本位で漏れた呟きだった。
予想外の返しだ。そんなに驚くような事だろうか。自分の耳を弄りここら辺に開けるかと考えていると、恐らく、その思考が分かったのだろう。鳩が豆鉄砲を食らった顔から未だ嘗て見た事がない、真剣な顔で俺の手首を掴んだ。
 
「やめて」
「は?」
「ピアスなんていい事ないよ」
 
右に三。左に五。そんなに開けたお前が云うのか。
 
「後の処置が面倒だし」
「普通の傷と変わらねェだろ」
「穴開けるのめちゃくちゃ勇気いるよ」
「一瞬の事だろ」
「安定するまで寝返り打てない」
「仰向け派だ俺は」
「あと、」
 
やけに食い下がるな。と半分、常時見れない言動に楽しみながら、しかし半分、鬱陶しく思いながら依子の言葉に返していれば、途中で挙げる事項が無くなったのだろう、眉を顰めた、複雑そうな顔で押し黙った。俺が云える事ではないが、孤児という育ちが故に依子は年齢程教養が無い。清掃の仕事をする為の知識は十二分に有るが、それ以外の一般論であったり教養はほぼ無い。俺はマフィアに入る以上、上司である姐さんから教えて貰った事もあり、また自分自身で学んだ事も多くあってそれなりにはなったが、きっと、嘗ての頃の儘であれば依子の事を云えないだろうと思う。否、正直な話をすれば、彼女は他の事に興味が無さ過ぎるので、ここまでではないだろうが。
そんな事はさて置き、依子は余程俺にピアス穴を開けさせたくないらしい。複雑な表情其の儘に絞り出すような声で「…やめて欲しい」と云われては、流石に理由を聞きたくはなる。
 
「随分と食い下がるじゃねぇか」
「うぅん…中也は其の儘でいて欲しい…」
「なんで」
「なんで…?えぇ……なんと云うか、その、処女でいて欲しいから…?」
「もうちっと、言葉選べねぇのか」
 
唸った末に出てきた言葉がそれか。なんだ処女って。
依子の口から出た言葉に突っ込みを入れつつ、以前より大分マシになった髪に指を通して耳に触れる。擽ったそうに小さく声を漏らしたものの、触れられ慣れているから拒否はしないし嫌がりもしない素振りに心を許してくれているのは十分に分かる。基本俺からされる事には受動的でされるが儘、そしてどんな事についても拒否も否定もしない彼女が、ここまで嫌がるのは初めての事で少ない語彙力で紡がれた答えはもしや何か隠し事でもあるのではないかと疑う気持ちも出てくる。
きっと、そんな俺の心境が顔に出ていたに違いない。依子は今度は困り果てた顔で違うんだよ、と云った。
 
「別に、深い理由がある訳じゃないの。なんていうか、その、私に感化されないで欲しいというか、綺麗な儘でいて欲しい」
「…ふゥん」
「…中也?」

そんな云い方では腑に落ちない。納得出来ない。
俺が疑い深いのは依子も百も承知で、自分の説明に眉を顰めた儘の俺に小さく溜息を吐いて瞼に唇を寄せてくるが、俺の機嫌が直ると思ったら大違いだ。掌でそれを制して拒否して、依子の膝から降り奥の寝室へと歩みを進める。
流石に、依子も焦った様子で俺の後を付いてきた。

「中也っ、ねえ、」
「白けた。寝る」

受け付けないと、睨みつければ依子は開いた唇をそのままに固まる。暫く、否たかが数秒の間だ。見つめ合っていたが、俺が視線を逸らし寝室へと入った事でその攻防は終わりを告げる。

寝台の、毛布とシーツとの間に身を挟んで困り果てた依子の顔を思い出す。たかがピアスを開けるだ開けないだの事でムキになる必要はないと自分でもよく分かっていた。と、云うよりも、依子がそんな事を云うと思っていなかったというのがあった。本当に、なんでも許してくれるのだ。だから、別に今回も「嗚呼、いいんじゃない?同じ所に開ける?」とでも云うと思っていた。少なくとも、それくらい俺の事を信用してくれていて、許してくれると。しかしそれは俺の想像でしかなく、当の本人は違った訳で。ぐるぐると回る思考の中で、自分の体なのだからいいじゃないかとか、あれ程拒否する依子に怒りが湧いてくるのだけれど、困り果てた顔に罪悪感は湧くもので、布団にくるまって瞼を閉じれば、思考はだんだんと暗闇に落ちていく。けれど、身を任せきれないのはきっと、隣にある筈だった暖かみが無いからで、いつもと同じ部屋にも関わらず酷く寂しくなった。




眼が覚めると、朝日はまだ登らない時間ではあるが、夜中の暗さはなく薄っすらと部屋が明るくなっていた。当たり前だが、隣に依子の姿はなく開いた空白の冷たさが、一夜此処には自分しか居なかったと教えている。居間で寝たのか、それとも、もしかしたら帰ったのかもしれない。アラームの時間にはまだ早く水でも飲みに行きたいが、なんとなく、寝台から出る気になれないのは、居間にいるかもしれないという期待の反面、いない時の喪失感を味わいたくないからだろう。
寝返りを打って、もう一眠りしちまおうと瞼を閉じて、けれどそう云う時に限って寝付けず、だらだらと時間を消費していた。だがやっとのところで意識が落ちていく感覚になる。この儘眠ってしまえと意識を落とそうとした、その時だった。

物音がした。扉を開く音だ。微かな音は常人では聞き取れないだろうが、俺の耳にはしっかりと入った。そこで起きれば良いのに、俺はその儘毛布の中で瞼を閉じ続けていた。
寝台のスプリングが静かに沈む。

「中也、」

掠れた声が聞こえた。密かなその音量は、どうやら寝ている俺を起こすつもりは無いようだ。

「臨時で仕事が入ったから、行くね。昨日のご飯ありがとう。すごい美味しかった。あと、」

一度言葉を区切った後、少し間を置く。その空白はきっと、云い淀みだ。

「…ピアスの事、ごめんね。その………私、中也の耳の形が好きだから、つけて欲しくなくて…。それと、」

そりゃ穴を開ければ多少形が変わるが、云う程ではないだろう。流石に俺もそれくらいは知っている。それと、と続けられた言葉を待っていれば、意を決した様に依子口を開いた。

「ピアスの穴は昔の事があって、その、あまり、良いものではないから…。ちゃんと私の整理がつけれたら、その時に、中也と一緒に開けたい。だから、その日まで待って欲しい。その日まで、一緒にいて欲しい」

じゃあ、そろそろ行くね。
依子の指先が俺の髪を撫でるように梳かして、そして、こめかみに唇を落とす。小さなリップ音の後、ゆっくりと影は遠のいて、早足で、しかし最小限の物音で寝室を出て行く。
完全に気配が消えた後に、ゆっくりと目を開けた。カーテンの隙間から、白んだ光が覗いている。もう太陽は昇りつつあるのだろう。
きっと、依子は俺が起きていると知っていた。だからあんな話をしたのだと思う。依子は昔の事を話した事がない。十五の時に今の清掃業に就いて、それ以降の事しか話してはくれなかった。だから、今依子の云った“昔の事”とは、その前の話なのだろう。無理に聞く事でも無い。この社会に生きる人間なら、誰しも一つや二つ何か腹に抱えているものだ。しかし、俺を“パートナー”として見ていてくれるのなら、“首輪”を送られ、それを了承したのだから、ちゃんと、面と向かって云って欲しかったと思うのは、可笑しな事なのだろうか。