どれにしますか。後輩の差し出した箱の中には色取り取りの小瓶が敷き詰められている。
赤、黄、緑、黒、紫、白、橙その他諸々。薄い透明なものもあれば、絵の具のような鮮明な色もあり、見ているだけでも楽しい、というのが、何となく分かる気がする。ぼんやりと眺めながら、目についた色の小瓶を抜き取れば、後輩はお目が高い!と芝居掛かった口調で話し始める。なんでも、最近買ったばかりの新色らしい。自分的にはあまり使わない色だから、嬉しいです。そう云って、その子は用具を机の上に並べ始め、私はその色がどのメーカーだとか、何と合うとか、そんな話を聞き流しながら敷かれたタオルの上に自らの両手を乗せた。



本人曰く中々の出来らしい其れは、単体で見ればとても可愛らしく見える。しかし、それを施されているのは私なものだから、先輩や上司は“それ”を見てぎょっと目を張った。事情を説明すれば、なぁんだと息を吐いたり、馬子にも衣装とかいうのだな、とか地味に皮肉めいた事を云われたが、皆口を揃えて似合う似合うと云うものだから、それなりに嬉しくはある。
速乾ではありますけど、直ぐには乾かないので少しの間は傷付けないでくださいね!と云い残し分かれ道で別れて、家であるアパートに着くと仄かな明かりが窓から漏れていた。特に端末に連絡は無かった気がしたが、どうやら、“彼”が来ているらしい。ならば好都合、と部屋の扉をがんがんと足で叩けば、少しの間で扉は開く。其処には訝しげな顔をした彼が居て、私の好物の匂いがした。

「自分で扉くらい開けやがれ」
「手が空いてなくて。ただいま、中也」
「………おかえり」

大分間があったのは、照れ隠しだ。ふい、とそっぽを向いた顔は紅潮していて、それに私は頬が緩む。こうやって、私を迎え入れてくれる事は少ないから、私も私で少し気恥ずかしいが、それよりもああやって言葉を返してくれる中也に嬉しく思う方が強かった。開いた隙間に身を滑り込ませて部屋の中に入り彼の頬に擦り寄れば、身をよじったものの拒否する様子はないものだから、これはいけると唇に甘く噛んでやろうと企んだ、迄は良かった。
ぱちん、と爆ぜる音がする。その音にはっと我に帰った中也はぱたぱたと小走りで、私に背を向けて部屋への廊下に併せてある簡易の台所へと戻って、コンロにかけられた鍋の中を覗き込んだ。

「っ、たく、さっさと着替えてこいよ」
「…はぁい」

釈然としない、というか残念な気持ちで、彼の背後を通り部屋の中へと着替えにいった。もうちょっとだったのに。甘噛みしてやれば彼を美味しく頂けた気がするが、彼の作る唐揚げが私の好物で、今朝からお楽しみのブツなのでまあ仕方ないか、と唐揚げに免じて許した。そして、其処ですっかり忘れていた事を思い出す。後輩によって彩られた両手の爪を。こう思うと、可愛い割に面倒臭いなと思ってしまう。手が使えないと言う事は、何も満足にできないし中也の柔い赤茶の髪を梳けない。私くらいの年齢の人は皆やっている、と云っていたが、こんな事に時間を使うのも気を使うのも私には出来ないから、世の中の女性には感服するしかない。
どうしたものかと頭を捻るが良案は浮かばない。板の床に仰向けに寝転んで、爪を眺めてどうにか出来ないかと考えていれば、軽く頭を小突かれる。中也の足先だ。

「あでっ」
「何してやがる。さっさと、…あ?」

じとりと睨まれた視線は私の目から、私が見つめる爪へと変わる。ひらひらと振って見せれば、彼は屈んでじっとそれを見つめる。

「後輩の練習台になったの。忘れてた」
「はーん。上手いじゃねえか」
「ね。でもそのお陰で何も出来ない」
「は?落としゃいいだろ」

何云ってんだこいつ。と私を見下ろす。落とす?何を?中也の云っている意味が分からなくて、首を傾げれば、同じように中也も首を傾げる。暫くそうやって見つめ合っていたが、私は見下ろす瞳が綺麗だなあと思考が飛んだ。嗚呼そうか。そう云えばこの色だなぁ。直感的に選んだ色は、この瞳の色だった。
さて、そんな私の心情など露知らない中也本人と云えば、首を傾げた私の方に首を傾げている。しかし私が、自分の云った言葉を理解出来ていないと分かり、すっと瞳を細めて頬を引き攣らせた。

「真逆手前…知らねえな?」
「落とすって何」
「爪の色をだよ。その後輩に聞いてねェのか」
「明日仕事始まる前に綺麗にするって云ってた。ちょっと勿体無いね」
「あそう…」

取り敢えず飯出来たから。と立ち上がって踵を返すその背を見送って、まあ、明日には元に戻るのだから今日だけ、少しの時間だけ堪能すりゃいいかと、そして多少汚くなってもいいかと着替えを始めた。

中也の作った唐揚げを十分堪能して、上機嫌でソファに横になって爪を眺める。案外しぶといというか、早く乾いたのか爪は未だ綺麗な模様の儘だ。風呂から出た中也が、タオルで髪を乾かしながらソファへと近づき、背凭れから私の事を見下ろす。面白い顔だ。機嫌が悪い訳ではない、が、釈然としない、面白くない、と云った複雑な顔だ。そして珍しく、そろり、と、遠慮がちに私の上に乗っかって胸元から私を見上げたが、少し驚いて目を瞬かせる私にふい、とそっぽを向いてしまう。

「どうした?」
「…別に」

何でもない。と続くのだろうが、何でもない、訳ではない事は流石の私にも分かる。深く聞くべきか、流すべきか、と爪を眺めながら考えていたが、ぐりぐりと胸元に自身の額を擦り付けるものだから、擽ったかったのとまだ風呂に入ってないから汚いだろうと止めさせる為に手の甲で頬を撫でれば、ちらり、と罰の悪そうな顔で青い瞳が見上げる。

「まだ風呂入ってないからやめて」
「いいだろそんなモン」
「良くないって。我慢、『出来る?』」
「……………出来る」
「『お利口さん』ね」

よしよしと頬を撫でてやれば、目に見えて嬉しそうな顔をするものだから可愛くて仕方ない。私も風呂に入ってこようかなあ、と中也に退いて、と云おうとしたが、本人は先程と打って変わって機嫌よく私の上に居るものだからその言葉は引っ込み、もしかして、の可能性の方を口に出した。

「構って欲しかった?」
「…ちげぇ」
「本当?」
「………ちが、う、くは、ねぇ、けど」

赤みの増した頬と溶ける青は肯定で、爪色よりも此方の方が綺麗で、瞬きで色を変えるのが面白い。名前を呼べば、逸らされた視線は真っ直ぐに私を見つめる。両手で頬を包んで親指の腹で目元を摩った。

「ふふ、やっぱり此方が良い」
「? 何云ってんだ?」
「此方の話。ねえ、」

今日はいつもと違うことしてみようか。と提案すれば、その青は陽の光を踊らせる海の水面のようにきらきらと輝きなんだなんだと好奇心旺盛に問いかけてくる。しかしこれは今のうちで、次の瞬間にはどろどろに蕩けて私の事しか見えなくなるんだろうなあ、といつものお決まりの道筋を描いて苦笑した。まずはいつもと同じ『命令』をして『褒めて』次は新しい『命令』を加える。出来たら『褒めて』、出来なかったら『お仕置き』、だけれど、中也は割と何でも卒なく熟す子なので『お仕置き』をした事が無かった。私が甘いと云えばそうなのだけれど、偶には、そんな中也も見たいなあ、なんて、意地の悪い所が出てしまう。小首を傾げる中也に形だけ謝っておいて、舌なめずりをしたのは心の中に秘めておこう。