八七日目:前



ポートマフィア首領−森鴎外は小さく溜息を吐いた。

「参ったね……実に好ましからざる事態だ」

森の言葉に、部屋にいる二人の人物に緊張が走る。
一人はポートマフィアの古参で、実働部隊『黒蜥蜴』の百人長である広津柳浪。
もう一人は、幹部候補である中原中也。
どちらの人物も、沈黙による返答を返す。

「通常の抗争なら、敵は多数の組織だ。その行動は危険だが数式化できる。予測し、操ることも不可能ではない。だが『白麒麟』は違う。何もかもが謎だ。異能も、目的も、その居場所さえも。霧が霞を相手に戦っているような気分だよ」

森は言葉を区切り、部屋の外に広がるヨコハマの街を眺めた。

「マフィアを除く四大組織はほぼ壊滅。我々にしても、幹部から準幹部級の人間が何人も行方不明となっている。太宰君もその一人だ」
「太宰のポンツクはともかく、他の仲間を助けなくては」
「生きていれば、ね……」

森が小さく零した呟きに、中原は拳を強く握る。行方不明となった六人の安否はようとして知れず、歯痒さを感じた。森はそんな中原から視線を広津に変える。

「広津さん。敵について、新たな情報は?」
「はい。……末端の噂でしかありませんが、『白麒麟』の異能は奇怪にして異端だとか。何でも、戦った異能者は皆、その異能のあまりの強大さに絶望し、自ら命を絶つそうです」

噂と云うだけあり、内容は酷く不透明で抽象的だ。ようとして知れぬ相手に果たしてどう手を出すべきか、と思案する森の耳に、控えめな声がする。

「首領。明野です。失礼します」
「良いタイミングだ」

部屋に入ったのは、幹部の一人である尾崎紅葉の直麾部隊に所属する明野忍だ。行方不明となっている太宰、この部屋に居る中原と親しい少女で空間転移の異能を持つ異能者である。緊張に強張る面持ちで入室した彼女は、部屋の主である森に一礼し中原や広津と並ぶ。

「どうだったかね?」
「…申し訳ありません。行方不明になる前に、太宰さんが残した手掛かりが無いか三度調べましたが新しい情報は何も見つかりませんでした」
「そうか…」
「申し訳ありません」

もう一度、謝りの言葉を口にする明野に、森は緩やかに微笑んで「気にする事はないよ」と声を掛ける。眉を八の字に下げた彼女は困ったような顔で、否言い出しにくそうな顔をした。

「どうかしたの?」
「その、気になることがありまして」
「なんだい?」
「何か新しい手掛かりを見つけたのか新品の顕微鏡を購入されているのですが、使われた形跡がないんです」
「何?顕微鏡だと?」

顕微鏡、その言葉に反応を示したのは中原であった。何かが繋がったような、そんな言い方で彼は明野に寄る。

「そいつは何処にある」
「太宰さんの部屋です」
「あのくそったれ!案内しろ!」
「へ!?あっ、はい!」

森の部屋を足早に出て行く中原の背を追う様に、明野も振り向き出て行くが、森と広津に挨拶をしていないと気づいたのだろう、扉からひょっこりと顔を出すと「失礼しました!」と云うと律儀にゆっくり静かに扉を閉めて中原を追った。

「忙しないねえ」
「はあ……」


>>>>>


太宰の執務室へと着いた明野は太宰の執務机の一番下の引き出しから、ファイルと並んで置かれた新品同然の顕微鏡を取り出す。

「これですけど…」
「貸せ!」

中原は明野の手からその顕微鏡を奪うと床に叩きつけ破壊する。大きな音と共に粉々に壊れる顕微鏡だが、それなりの重さと強度を持つ。これ程壊すには中原の異能無くては無理だろう。中原と明野は壊れた顕微鏡の破片の中から、目的の物を見つけた。

「ほら見ろ。やっぱりな」
「発信器を兼ねた通信装置ですか」
「嗚呼。この発信器が示す先に、太宰と『白麒麟』いる」
「おっかな……」

怖ぁ。と呟く明野に、中原はじとりと睨んだ。

「忍、手前本当は知ってただろ」
「ん゛っ」

言葉を詰まらせ見るからに動揺する明野に、中原は追い討ちをかける様に続ける。

「俺があの最低野郎を救出に行かざるを得ない状況を作る為に謀ったな」
「……『私ちょっとお出かけするから後よろしくね』としか言われてないです」
「本当か?」
「本当です!こればっかりは!」

中原の視線に耐えられないと吐露する明野は、相変わらず涙腺が弱く半ベソになっていた。流石にここまでくると中原も言及出来ず分かった分かったと自分より少し高い場所にある頭を軽く撫でる。
手の内の通信装置を弄り耳に当てると、明野に行くぞ、と襟を掴んで、引っ張った。

「ぐえっ。わ、わたしもですか」
「手前は別にあの野郎の指揮でやる事があるんだろ」
「え?はい」
「認めやがったなこの野郎」
「太宰さんには適当に謝っとこって」
「いっそ清々しいかよ」

中原に引き摺られて移動し、地下の駐車場に着く間に打ち合わせをしていく。中原は発信器を頼りに太宰と『白麒麟』の居場所を目指す。その間の雑魚の処理を明野が行う。ポイントを通過したら、明野は太宰の指揮で別の事をする。明野の異能があれば、例え三〇〇q/hで爆走しているバイクであろうと乗降は容易い。恐らく、太宰はそこまで読んで配置しているのだろうな、と明野は思っていた。

地下の駐車場に着くと、車両管理をしている黒服が中原のバイクを用意し下がったところであった。
そのバイクは、明野も幾度か見たことがあったもので、ふと気付いたことを口にする。

「待ってください私これ乗れないですよ」
「あ?俺に掴まってりゃいいんだよ」
「雑かよ」
「ポイントまで送ってやるんだ。我儘云うんじゃねェ」

バイクに跨りエンジンを掛けると、轟音が鳴り響く。何度かエンジンをふかすと、中原は明野にさっさとしろと叫んだ。これなら当初の予定通り異能を使って自力で転移した方が良かったかな、なんて少し後悔しつつ、明野はバイクに跨り言われた通りに中原の腹部へと腕を回し掴んだ。
ずっしりと、体が重くなる。成程、中原の重力操作によるものかと明野が考えて間も無く、紅緋のそれは地鳴りの様な唸り声を上げ走り出す。


龍頭抗争八七日目の、長い夜が始まる。