後日談



龍頭抗争が終結して、数日が過ぎた。
ヨコハマの黒社会を統括すべく、幹部から最下級構成員に至るまで、あらゆる人員が動員され日夜働き詰めの毎日を送っている。勿論私もその一人だ。まだ細々と燻る敵対組織の殲滅や制圧に駆り出され、抗争の間よりも寝る間もなく働き詰めだ。しかし、抗争と違ってまだ先が見えるだけ幾分かマシではある、と思う。
忙しい合間を縫って最近通い詰めているのが医務室である。清潔感のある白い病室には陽の光が目一杯に差し込んでいた。その一角にある寝台に、中也さんは眠っている。
抗争終結前夜、中也さんは『白麒麟』澁澤龍彦の拠点で自身の異能を最大限まで解き放ち抗争の元凶を断った。しかしその代償はあまりにも大きく、太宰さんが異能を止めてから一向に目を覚まさない。外傷は元より内臓腑の損傷がかなり酷く、口から溢れ出るあの血液の量を、そしてあの屋上での中也さんの表情を、私は二度と忘れることはないだろう。
寝台の隣に置かれた簡易な椅子に座る。白い包帯に巻かれた腕や綿紗で止められた頬を見て、太宰さんに何も言えなくなりますよ、と心の中でだけ呟いた。
もう終わったことなのだけれど、もっと私がうまく立ち回れていたのなら、と思ってしまう。否、私はあの時どうすることもできなかった、出来ることなど何もなかった。分かってはいるが、しかし、何もできない自分が歯痒くて虚しくて悔しい。
GSSにいた頃には、感じたことのない感情だ。あの頃は、唯只管に、命令だけを聞いていれば良いだけだった。目の前の敵も、背後の味方も、大差なんてなかった。命令があれば、例え味方であろうとも等しく殺す。毎日それの繰り返しだった。仲間だとかそんなもの、考えた事もなかったのに。出来ることをやればそれで良いと思っていたのに。首領に誘われるが儘にポートマフィアに入って、紅葉様に引き取られて、中也さんと出会って、太宰さんと出会って、色んなことを知って、見て、感じて。世界は自分が思っている程狭くなかったと、思っている程醜くもなかったと、思えるようになって。それだけでも昔の自分なら鼻で笑うだろうに、もっとこの組織にいる人達の為にもっと力を使いたいとさえ思ってしまうのだから、あの頃の自分なら大爆笑か、もしくはドン引きするだろうな、と笑ってしまった。
扉の開く音がする。振り向くと、其処にはよく知った人がいた。黒い外套に包帯の巻かれた腕と片目。太宰さんだ。

「やあ忍ちゃん。またこんな所にいたの?」
「えへへへ。またいます」
「物好きだねえ。動きもしない蛞蝓なんて面白くないだろう」
「うーん。私がいる時に起きてくれたら嬉しいなって思いますけど」

うげぇ、本当物好きだよ忍ちゃん。なんて云いながら、太宰さんは信じられないような目で私を見るので、相変わらずだな、と私は苦笑した。そして椅子に座る私の隣へ来ると、ゆっくりと頭を撫でた。

「身体が丈夫なのが売りなんだから、今にすぐ目を覚ますよ」
「そうでしょうか」
「うん。それに中也は君に対して過保護だからね」
「はあ」

過保護?とは。首を傾げて太宰さんを見上げると、彼は意味深に笑っている。しかしそれは一瞬の事で、すぐにいつもの、明るい笑顔に戻った。そしてさあて、と私の腕を掴んで立ち上がらせる。

「首領が私達の事をお呼びだよ。早く行こう」
「え゛っ。それもっと早く云って下さいよ!」

首領がお呼びとあらば早く行かなくては。と焦る私とは対照的に、太宰さんは大丈夫大丈夫と余裕綽々である。なんでそんな余裕で構えれるのか摩訶不思議。太宰さんの背中を私が押して、私達は中也さんの病室を出た。向かうは首領の執務室である。


「…あの野郎」

太宰さんが部屋に入ってきた時には、既に中也さんが目を覚ましていた事を、私はかなり後になって知る事となる。


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首領の執務室は、毛足の長いカーペットと頑丈な壁に囲まれた廊下の先にある。扉の前には私や太宰さんよりもはるかに体格の良い屈強な黒服に警備されている。私はこの執務室に呼び出されると、いつも緊張で身が竦んでしまうが、対して太宰さんはいつもと変わらず、まるで自分の執務室にでも入るくらい気軽に黒服に声をかけ這入るものだから、私もその背を追いかけるようにして這入った。
執務室の奥に、首領の姿が見える。机に肘をついて、私たちに微笑んでいた。

「お呼びでしょうか、首領」
「よく来たね、二人とも。実は二人に折り入ってお願いがあってね」

私と太宰さんに。はて、一体どんな″お願い″なのだろうか。思い当たるものが浮かばず、困惑としていると、首領は微笑んだまま私の名を呼んだ。

「忍ちゃん。君には私の力になって欲しいな」
「うぇっ、あ、私に出来る事であれば、」
「君にしかできない事だよ。私の直轄遊撃隊の一員として、私と組織の為にその力を使ってくれるかい?」
「も、勿論です」

ありがとう、良い返事が聞けて嬉しいよ。と首領は益々笑みを濃くした。
首領直轄の遊撃隊と云えば、首領の命による敵への攻撃や味方への援護だけでなく武闘派実働組織の指揮権を持つ部隊である。わ、私なんかが居ていいのかと不安しかないけれど、でも、首領の、このポートマフィアという組織の為に力を使えるのなら、これほど嬉しいことなどない。

「此度の抗争で君はよく組織に貢献してくれた。お陰でポートマフィアは最小限の損害で済み、これからより深くこの街に根をはれることだろう。これからも活躍を期待しているよ」

「首領」

隣の太宰さんが首領を呼ぶ。盗み見た顔は、何処か楽しげだ。ちらりと横目で私を見るその視線に、何処か嫌な気配を感じる。首領は嗚呼そうそう、と付け加えるようにまさかと思っていたことを口にした。

「太宰君達ってのお願いでね。忍ちゃんの上司は太宰君が務めることになったよ。まあ既知の人の方が君も安心だろう?」
「何も安心できません」

むしろ何をさせられるか分からないですよ。間髪入れずそう云うと、太宰さんはやだなあ、信用ないなあ、なんて態とらしく泣いたふりをする。泣きたいのはこっちだ。絶望する私に、首領は、先ほどの昇進をまた文面で通知するらしく、また今度封筒を届けさせるよ、と苦笑しながら云って退室を命じた。
太宰さんと揃って執務室から退室し、昇降機へと乗り込む。

「どうしてこうなった」
「あれ?嬉しくないの?」
「太宰さんの下なんて面倒臭いじゃないですか」
「忍ちゃん云うようになったねえ」
「ぐえっ」

冷たーい、と云って私の首に腕を回し割と強めの力で締められる。待ってくれヤバいこれは召される。死んじゃう死んじゃうと腕を叩けば、太宰さんは相変わらず形だけの謝罪を口にして腕を解いた。

「私の下で多くを学び給えよ。燕ちゃん」
「……それ、なんで」

かつて呼ばれたその名前を、どうして太宰さんが知っているのか。驚いて後ろにいる太宰さんに振り向けば、彼はふふふ、と意味深に笑った。

「『白麒麟』の組織の資料にあったのだよ。異能力『飛燕』から取られた君の綽名だ。君はポートマフィアに入ってから、一度も自分の異能力名を云ったことはない。空間転移の異能、としか話さず、絶対に異能力名を云わなかった。だから知りたくなってしまってね」
「…隠してた訳じゃないですよ」
「うん、知ってる。君はこの名前があまり好きでは無いものね」
「知ってて呼ぶんですか」
「だって私だけが知ってる名前って、素敵でしょ?」
「すてきじゃないです」
「ふふふ、泣いちゃったの?ごめんね。二人だけの時しか呼ばないから、許してね」

太宰さんがゆっくりと私の目元を指でなぞる。涙は出ていなかったけれど、多分、心の中では泣いていた。
『飛燕』とは、軽やかに身を翻し飛ぶ燕のことを指す。私はそんなに軽やかに飛べはしないし、燕のように自由に飛べない。皮肉でつけられた名前が、燕という綽名だった。命令なしでは飛べない鳥籠の小鳥だ。私の技能が拙い所為で、自分の異能がよく思われないのが、私はいつも嫌だった。だから必死に精度を磨いて、より広い範囲を飛べるようになりたかった。今の私では、その名前は相応しくない。
忍ちゃん。太宰さんが私を呼ぶ。応えることはできなくて俯いたままでいると、その人は頬を包み込んで視線が合うように上を向かせた。

「私が飛べるようにしてあげる。約束だよ」
「ほんとうですか」
「うん。君はちゃんと燕になれる」
「ちゃんと、『飛燕』になれますか」
「なれるよ。頑張ろうね」
「ううぅ」

あらら、泣いちゃったね。ぼろぼろと落ちる涙を、太宰さんは襟衣の袖で拭う。目的階に着くまでの数分だったが、私は太宰さんに抱きついていた。消毒液の匂いがする。中也さんも重体だったけど、太宰さんもいつもと加えて、傷だらけである事を思い出した。そんな中でも前線で指揮をしているのだから、やはり、この人は凄い人なのだと、改めて思った。この人に師事を受けて、いつか異能に見合う人になりたい。頭の中に過ぎったのは、中也さんの背中だった。

「でも太宰さんもちゃんとお仕事してくださいね」
「今云うかなあそれ」

それはそれ、これはこれだわこの野郎。