七〇日目


「太宰!何処だ太宰!」

うとうとと船を漕いでいた頭が、怒声によって覚醒した。そりゃもうぱっちりと。扉や壁を隔ててもよく通るこの声は中也さんのものに違いない。私は何をしていたんだっけ、と記憶を遡る。嗚呼そうだ。太宰さんに資料の束を届けにきて、「忍ちゃんちょっと休憩しようよ」という言葉にまんまと引っかかったのだった。
当の本人はその怒声が聞こえないのか、否分かっていて敢えてだろうけども、私の肩に頭を預け身動きどころか眉ひとつ動かすことなく眠っている、振りをしている気がする。

「おい太宰、いやがるんだろ?出てこい!」

声はもう近い。予想しよう。あの人は多分この扉を蹴り開けて入室するに違いないと。片側に人一人分の重さが有るので耳を塞ぐことが出来ない事を悟り、私はその衝撃に耐える為目を力強く塞ぎその時を待った。そして、轟音と云っても過言ではない乱暴な音と共に扉は破かれん勢いで開き、中也さんがご入室された。相変わらずだなぁ。なんてある意味こんな状況でも変わらないその態度に安心した。
中也さんは部屋の真ん中に置かれた横長のソファに座る私に、驚いた顔をしたものの直ぐに呆れた視線を投げかける。

「何だ、手前も居たなら返事くらいしやがれ」
「えぇぇ、んな事言われましても」

「ふあぁ………うるさいなあ」

太宰さんは気怠げにそう云って、私の肩から頭を持ち上げ片腕を天井へ突き出し背伸びをした。そして私の頭を優しく撫で「ありがとう、助かったよ」と云う。私も最近の激務の疲れで船を漕いでいたので、「お気になさらず」と返したが、太宰さんは笑顔のまま私の髪を撫でていた。真意が読めずオロオロとしていると、背凭れのその後ろから舌打ちの音がした。

「太宰。手前首領から呼び出しがあったってのに、何寝てやがる」
「やァ中也か。おはよう。今日も君という人間に適したサイズをしているね。実に結構。私に何か話かい?善いとも。今から顕微鏡を持ってくるから、ちょっと待ってね」

そう云いながら、太宰さんは顕微鏡を取ろうと執務机の引き出しをごそごそと漁りだした。
太宰さんあかんです。中也さん怒りで震えてますよ。今は煽ったらいかんやつです。
本日二度目。私は今度こそ耳に手を当てた。

「阿呆!今外がどういう状況か判ってんのか?ポートマフィア史上……いやヨコハマ史上最悪の大抗争だぞ!」

たまに思う。中也さんの声帯と肺活量ってどうなってんだろうって。それくらい耳を塞いでも声はきっちり頭の中を通過していく。それは後ろにいる私より、太宰さんの方が直撃で、彼はうんざりとした顔をしていた。

「そんなに耳元で怒鳴らなくても判ってるって」

太宰さんは机上に置かれた書類、資料を片手に持ち今の状況を読み上げる。
海外組織『ストレイン』は構成員の八割がすでに死亡、『高瀬會』は頭目が暗殺され指揮系統が瓦解。
武器商人『陰刃』、元宗教組織『聖天錫杖』、密輸業者あがりの『KK商会』等、ありとあらゆる組織がこの抗争に参加、いや引き込まれて未曾有の事態を引き起こしている。勿論、ポートマフィアも渦中に居るが他の組織と比べれば、まだ、被害は最小限に抑えられている。しかし、これが明日明後日も続くとは限らない。それは、例の宝石店でよく分かった。不干渉を宣言したGSSでさえ抗争に引き込まれているのだ。今後の展開は、誰にも読めはしない。

「ま、心配いらないよ。……全員死ねば自動的に終わる」

なんともまあ、極論である。
だが、そうならないと言い切れないのが実に歯痒いことだ。このまま行けば、確実に、そうなるだろうと私でも予想できる。それ程までに、この抗争は深刻で悲惨な状況だ。

「本気で云ってんのか手前。お前と違って、この街の誰も死にたくはねえんだよ。寝てる暇があったら、抗争を終わらせに外に行きやがれ」
「ははは。そう云って皆、せっせと抗争に燃料をくべるのさ」

軽く笑いながら中也さんの話を流した太宰さんは、ある資料を見ていた。それは、先程私と先輩で作成したもので俄かに信じられない、しかし現実に起こったことが記されている。

「抗争自体への対策は森さんに任せておけば問題ない。私達が警戒すべきは、寧ろこっちだ。これを見なよ」
「何だ、この写真?………死体か…誰の死体だ?」
「ポートマフィア現幹部、通称『大佐』だ」
「な……!あの爺さん、死んだのか!?あり得ねえ!」

中也さんが声を荒げるのも分かる。ポートマフィアの中でも私や中也さんの様な現場に出ることの多い人間からすれば、その人は会うことの多い人物だった。地面を液状化させて操る異能は味方となれば心強いが、敵となると厄介な異能だ。私は対峙した時、容易に地面に着けない分多く転移をしなければならないので、集中力の持続性を体感した。
中也さんも中也さんで、体術や格闘術の師事を受けていたと聞いているので、異能だけでない強さをよく知っているのだ。誰がやった、と詰め寄る中也さんに、太宰さんは、その人物を呟く。

「『白麒麟』だ。奴の異能は未だ不明だが……恐らく『白麒麟』は、異能者を殺せば殺すほど強くなる」

思い出すのは宝石店に散らばった骸だ。GSSの武闘派幹部は勿論、強力な戦闘系の異能を持つ異能者たちの亡骸は、『白麒麟』からしたら中身を失ったガラクタなのだろうか。太宰さんが『白麒麟』だと云った白髪赤目の男性のあの違和感が、あの日から全く拭えない。胸の奥にこびり付いて、いくら拭おうとしてもかすかに残り、また増殖していく。この不快感は一体何なのだろうか。
不意に、端末が鳴り響く。出所は私のポケットで、取り出して画面を確認すると、紅葉様からであった。直ぐ様受話器を押し、出る。

「はい、明野です」
『忍。今何処に居るえ』
「本部の太宰さんの執務室ですが、」
『なら良し。西での抗争が激化した故其方に行け。下に車を止めさせる』
「分かりました。直ぐ向かいます」

電話を切ると、同時に立ち上がる。太宰さんが私を呼んだ。

「また火柱が上がったのかい?」
「今度は西みたいです。暇無しですよ」
「優秀な部下を暇にしておく方が罪なんだよ。頑張ってね」
「抗争に燃料をくべると云っていた人に云われると、素直に受け取れない…」

頑張ってと云われてここまで喜べないのは初めてである。太宰さんは気にした様子もなく清々しい笑顔で私に手を振った。反して私は複雑な心境で、中也さんの所為でちょっとばかり立て付けの悪くなった扉に手をかける。

「忍」

不意に名前を呼ばれ振り向くと、中也さんが此方を見つめている。小首を傾げると、彼は薄く口を開いたと思えばまたきゅっと結んで、それからゆっくり息を吐いて微笑んだ。

「……何でもねェ。行ってこい」
「? 頑張ってきまーす!あ、太宰さん報告書お願いしますよ絶対ですからね!」
「ええー!忍ちゃんの仕事でしょお」
「ふっ、これから抗争の燃料として務めを果たしますので無理でーす」
「冗談きついよそれは」

それでは失礼しまーす!と執務室から退出し、紅葉様の指示通り本部の下にあるロータリーへ移動する。昇降機に乗り込み、硝子の向こう側に広がるヨコハマの街を眺めた。今この瞬間も、各所で火の手は上がり抗争を止めるべく私のような人員が更に投下されている。しかし人員が増えれば増える程に激化しまた大量の人員が投下される。燃料とは言い得て妙。確かにその通りだと、硝子の向こう側の私が嘲笑った。