巡り来るさだめ


横濱にある骨董品店で、とある人形を買った。
否、当初買ったのはトランクケースだった。伽羅色をした牛皮のそれに一目惚れして、私は購入を決意した。それ程年季は入っていないのか、割合綺麗で磨かれていたのでかなりの値段がするだろうと腹を括ったが、店の主曰く、「金具が壊れているのか蓋が開かない」と申し訳なさそうに眉を下げて云った。売れない訳ではないが、修理の方に出費が嵩むだろうから、ほぼ無料と云っても過言ではない破格の値段で譲り受けたのだ。意気揚々と家に持って帰り、アンティーク物に詳しい友人に電話をかけ修理をお願いした。そこまではまだよかった。
留め具の具合を知りたいという友人に、口頭で伝えれる範囲のことを電話で話していると、簡単に留め金が開いたのだ。友人曰く、「まあアンティーク物にはよくある事」らしい。移動中に、引っ掛かっていた部分が緩くなって案外簡単に取れる、という事があるらしい。それならまあいいか、と取り敢えず修理は保留にする旨を伝えて、トランクケースの中身を確認すると、驚く事に人形が入っていたのだ。
四肢を折りたたむように収納された人形は、私の身の丈半分程度で、端正な顔立ちの少年の見た目をしている球体関節人形だった。
赤銅色の癖のある髪に、黒いつばの帽子を被ったその人形を抱き上げ暫く眺めていたのだが、私は「物によっては球体関節人形が高級車を上回る値段」がすることを思い出してハッと息を飲んだ。こうしちゃいられない。メルセデスの隣に駐車するくらいの緊張感と慎重な動作で、元のトランクケースの中に人形を戻し、骨董品店の名刺を探した。確かに会計をするときに貰ったと記憶にあるのだが、財布をひっくり返しても、鞄の中身をぶちまけても見つからない。ネットで探そうかと思ったが、小さな骨董品店が見つかる訳もなく、私は更に動悸息切れが激しくなった。誰か私に求心をくれ。急募骨董品店連絡先。
探し続けていればついに時間は日付を超えた。明日は仕事だ。そろそろ寝ないと差支えることは明白で、どちらにしろ連絡は明日以降しかできなのだから、と寝床に入ったのだった。

それから数日が経った。友人に聞き込み、例の骨董品店の事を探し回ったのだが、誰一人としてその所在を知らないと云う。アンティーク物に詳しい友人や横濱の地理に詳しいものに聞いても、皆一様に「そんな店は知らない」というのだ。狐に化かされた気分である。それでも、あの人形は返しに行かなくてはならない。私が買ったのはあのトランクケースである。しかもどえらい破格の値段でだ。高級車を超えるような価値あるものをたかがOLの賃貸に置いて良いものじゃない。あの日からトランクの中から人形を出してはいないので、夢であればと思うものの、そんなもの叶う筈もなく、それを上回る出来事がこれから訪れるとは、帰路につく私には想像できなかった。


「もーどりもどり、たぁだいま」

今日も一人。しがないOLの私は、自身の城とも呼べる自宅へと帰ってきた。私に相応の賃貸マンションの1Kで、広過ぎず狭過ぎない、良い塩梅のこの部屋にもう五年近く住んでいる。洋間の部屋の電気をつけてカーテンを閉めたところで気づいた。トランクケースの中に入れたままの筈の人形が、トランクケースの上に腰を下ろしている。一体、何故。ま、真逆、誰か出入りしてんのか?この部屋に?唯一合鍵を持つ母が住む実家は別県であるし、友人に勿論鍵は渡してない。恋人なんて高校からいないので論外。あらゆる可能性を考えたが全員あるはずないのだ。冷や汗が伝い怖くなる。盗聴とか盗撮とか、されてない、よね?恐ろしくなって、警察に電話とも考えたけれど、そんなことより部屋に居ること自体が怖くなって、鞄をひったくって外に出ようと思った。友人に連絡を取って今日は泊まらせてもらうと考えていた、その時、だった。

「何処行くんだよ。ゴシュジンサマ」

パンプスを履いて、扉に手をかけたその時、あるはずもない声が聞こえる。
意を決して振り向くと、そこには、

「え、にんぎょうが」
「酷ェなァ。ケェスから出さずに放置なんて、初めてだぜ」

お陰でこっちから出る羽目になっちまった。
流暢に喋り歩くのは、トランクケースに座っていた人形で、でも人形だから動くはずも喋るはずもない訳で。でも目の前でその人形は歩いて、喋って、笑っている。
現実と認識が一致しないこの状況に私の頭は処理をすることが出来ず、手足の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。
私の意志とは関係なく、その人形は一歩、また一歩と私に近づいてくる。未知との遭遇、恐怖心に言葉が出ず、震える私を碧い瞳が捉える。目と鼻の先まで来た人形に、私はきつく目を瞑った。
動く人形と謂えば祟りだとか、曰くつきだとか、良いものではないのだろうと思う。私ここで死ぬのだろうか。親孝行もできてない、友人と遊びに行く約束もしたばかりなのに、会社に迷惑が掛からないだろうか、まだやりたい事もできてない。もっと旅行に行きたかったし、もっと色んな場所の写真を撮りたい。
走馬燈のように色々な出来事が記憶が溢れ出して、思わず涙が頬に伝った。ただ只管に、その衝撃か何かに耐えようとしていると、頬に何かが触れた。冷たいそれが一体何なのか、怖いと思いながらも、ゆっくりと、瞼を上げる。きつく閉じていた所為で、廊下の電気の光に少し目が眩んだが、最初に目に入ったのは、あの人形の、心配そうな、或いは悲しそうな、表情だった。

「悪い、そこまで怯えるとは思ってなかったんだ」

人形は申し訳なさそうに、そう云う。返すことが出来ず、視線を泳がせると、頬に触れていたものの正体が分かった。その人形の、小さな手だった。私の膝の上に膝立ちになって、私の頬に触れていた。涙を拭うように、手を滑らせていた。その冷たさが引き攣った顔に心地よくて、暫く身を任せていると気持ちが大分落ち着いてきた。人形が動くとか喋るとか、非日常的で頭がこんがらがっているけれど、何故か、悪いものには見えなくて、私は目の前の人形に口を開いた。

「あの、」
「おう」
「わたし、よくわかんないんだけど、その、」
「分かってる。ちゃんと説明する」
「ありがとう、えと、お人形さん?」
「中也。中原中也だ」
「中也、わたしは」
「布由子」
「そう、伊東布由子」
「ずっと、ずっと手前に会いたかった」

小さな掌が私の頬を包み込み、美しい蒼玉の宝石と視線が交わる。
優しい温かみで満ちた瞳は悠久の時を超えてやっと出会えた恋人を目の前にしたかのように、絶対的な信頼と思慕に濡れていた。私も何処か、その存在を、ずっと待ち望んでいた気がして。理屈だ常識だ現実だ、そんな下らない陳腐なものは既に頭の中から消えていた。冷たかった筈の彼の掌が暖かく感じて、私はその暖かみに身を任せ瞼を閉じる。恐怖心は既になかった。唇に落とされた思惑を私はまだ知らない。