揺れる水面月


定時ぴったりに、その日の仕事は終わった。隣の後輩をみるに、まだ時間がかかりそうで、手伝おうかと声をかけたら、案の定、「早く帰ってください」と睨まれてジャケットと鞄を引っ手繰るように掴み私に押し付けて促される。その剣幕に少し恐怖しつつ、私は上司に腰から九十度のお辞儀をして帰路に着いた。
外は既に日が落ち私同様定時で仕事を終えた人々が帰路についているようで、嗚呼今日も一日が終わったと実感する。山程の書類を定時までに片付けられるか不安ではあり、後輩に少し迷惑をかけてしまったと心が痛んだ。最寄りの駅の改札を潜りホームに滑り込む電車に乗り込むこと数十分、あまり人の降りない駅が私の住む賃貸の最寄駅だ。人の波を掻き分けやっとの思いで降り、改札を抜けて、歩いて十分ほど。ひび割れた混凝土の壁を伝う植物を見れば築年数などもはや知れている。しかし中は新築のように綺麗な格安ワンルームこそ我が城である私の家だ。緩む頬を自覚しながら、明かりの漏れるその一部屋の鍵を差し込み回せば、鍵は簡単に開く。ノブを回して部屋に入れば、そこにはもう見慣れた黒い帽子が視界に入った。

「ただいま、中也くん」
「嗚呼、おかえり。布由子」

私の身丈半分ほどのその人形は、目を細めて笑った。


中也くんと一緒に暮らす様になって、早数週間が経った。
中也くんが動き出した、あの夜、中也くんから人形の話を聞いた。中也くんの様な人形は他にもいて、皆「異能」と呼ばれる不思議な力を持つらしい。中也くんは「重力を操作」する異能を持ち、重いものを軽くしたり、逆に軽いものを重くしたりできる。空気より軽くする事で、私のマグカップを浮かせた時はすごく驚いた。人形が動く事よりびっくりした。異能は人形個々に様々な種類があるらしく、中也くんの異能も、その数あるうちの一つというのだから、きっと私の想像もつかない異能もあるのだろう。それはそれで見てみたいものだ。
それと、人形には“主人”というものが必要だと云う。
主人がいなければ、人形は動くことさえ出来ずずっと眠り続けるらしく、中也くんが眠りから覚めたのは、私が中也くんの“主人”となったからで、もし、私があのトランクケースを買わなければ、違う誰かが中也くんの“主人”になったのだろう。これを幸運と思うべきか、はたまた不運と思うべきか、複雑な心境ではある。
ただ、中也くんという人形は私なんかが主人で良いのかと云う程なんでも出来る。毎朝起こしてくれるし、簡単なご飯も作ってくれる。家のこともしてくれるし、嫌な顔もせず会社の愚痴も聞いてくれる。そして酔い潰れた私の介抱をしてくれたりと、もう、何と云うか、数週間で駄目人間にされている。正直、中也くんがいない生活に戻れなくなりそうである。今までどうやって生活してたか最近記憶が曖昧になってるくらいにはどっぷりと甘々にされているのだ。
しかし、本人は全くその自覚がないもので。
今も「勤めご苦労さん。先に化粧落として風呂入ってこいよ」とか「寒くなってきたからな、鍋でいいか?」とか「湯は張ってあるから、ちゃんとあったまってこい」とか。

「出来る彼氏かな…?」
「あ?何だよ」
「ううんなんでも…。お風呂頂きまーす」
「おう?」

しかもきちんとタオルと着替えまで用意してるし。一〇〇点満点どころか一二〇点オーバーキルだよ。





浴槽で温まりながら、今日の昼の出来事を思い出していた。
山ほどの書類に立ち向かい入力作業と確認をするのが私の仕事だ。今日も定時で帰れる様にとマッハでタイピングしていた。しかし、あまりの多さにちょっとこれは残業確定かなと思って積まれた書類の方を横目でみると、隣の席の後輩が、じっとりと此方を凝視していた。その視線に最初は知らぬふりを決め込んでいたけれど、流石にここ数十分と刺されば居た堪れなくなるもので。丁度昼休憩を知らせる鐘もなったところで、後輩の方へと向けば、彼女はコンビニのサンドウィッチを持って私の目と鼻の先に来ていた。

「先輩、彼氏さんでも出来たんですか?」
「え゛?な、なんで?」
「だって!最近ずっと先輩定時退社じゃないですか。しかも帰る時すっごい嬉しそ〜な顔してるし!」
「ほ、本当?そんな顔してた?」
「本当です!やっぱり彼氏さんですか!?」
「ち、違うよ」

真逆人形とは云えまい。彼氏力はカンストしてるけど。でも、確かに中也くんと一緒に生活し始めて色々と変化があるのは確かだ。不規則で不摂生だった生活習慣は改善されてるし、今までだらだらと取り敢えず今日中に終われば良いという考えだった仕事も定時までには終わらせる様になった。思い返せば、良いこと尽くし他ならない。今まで変わることのなかった生活が一変している、と実感して、ただ簡潔に、『中也くんってすごい』に辿り着いた。あの人形本当何なんだ…?
そう思考を巡らせていると、後輩はサンドウィッチの最後の一欠片を食べ終えて意味深な笑みを浮かべた。

「今日は花金ですし、早く帰った方がいいんじゃないですか〜?彼氏さん待ってますよ」
「だから彼氏じゃないって」
「いいや!絶対そう!そうじゃなくても特定の人がいるんですよね!?」
「う゛っ」

特定の人と云われれば、確かにそうだけど…。人形だけども。言葉に詰まった私に、追い討ちをかけるかの如く、後輩私の手を握って、かつきらきらとした目で見上げる。

「私仕事手伝うんで!彼氏さんとらぶらぶな週末過ごしましょ!」
「いやだから、彼氏じゃ」
「ね!!!!!」

ゴリ押しというか、押し切られる形で、私は首を縦に振ったのだった。
本当に、彼女には悪いことをしてしまった。花金なのは彼女も同じで、早く帰りたかっただろうに。そう思うと申し訳なさが積もる。けれど、部屋に入る時の、あの中也くんが「おかえり」という声がどうも幸せで、一瞬後輩のことが頭からなくなってしまうのだから、重症である。休み明けに予定を合わせて、彼女にランチを奢ることにしようと胸に誓った。
私の名前を呼ぶ、中也くんの声がする。長風呂し過ぎたみたいだ。慌てて彼の声に応えて、そろそろ出る旨を伝えると、彼の密かに笑う声がする。気恥ずかしくなって、張った湯で音を立てて顔を洗ってから浴槽から出た。
後輩には彼氏ではないとは云ったものの、確かに私は彼の一挙一動に胸を高鳴らせたり、顔を染めている訳で。それは所謂恋だとか云うものだろうけれど、そんな安易なものではない様な気がする。はたしてこれはなんと呼ぶべきか。私は未だ彼に向ける感情に言葉を当て嵌めあぐねいている。