レシィト裏の走り書き

珈琲の香ばしい匂い。人々の密かな談笑。ゆっくりと静かに流れる時を肌で感じながら、窓の外へと視線を移すと、薄暗い通りを街灯が点々と照らしていた。いつもは日の明るい通りの方を見慣れているからか、外の様子が見慣れない。それは人がまばらな店内も同じで、何方も非日常に感じてわくわくと胸が高鳴ってしまう。どうやら私は、自分が思っているよりも好奇心が旺盛であるようだ。店内用のマグカップを洗いながら、自分の思わぬ一面に気づいて少し笑っていると、店の扉についた鐘が鳴った。覗き見ると、どうやらお客さんが見えたようだ。すぐさま蛇口を捻り手の水滴を拭うと注文口へと急いだ。
元々私の勤務は昼間だ。というより、女性の店員は昼間や夕方までが多い。それは珈琲店の閉店時刻が深夜近くになるので、治安の問題から必然的に男性店員が夜に勤務となる場合が多い為である。しかし場合によれば例外もあり、今回私が昼間ではなく深夜の勤務になったのも、元々入っていた社員が急用により出勤出来なくなった為に同じく社員の私が呼ばれたのである。最終までの店員は厨房の子が一人と私の二人で行う。人も少なくなり閉店時間が差し迫った頃に、そのお客は現れた。
黒い帽子と背広姿のそのお客は見た所青年のようだが、落ち着いた雰囲気は青年という年を幾何も過ぎているようにも見える。そして目を引くのは明るい赤茶の髪と透き通った、水彩の様な青い瞳だった。異国の方なのだろうか。不思議な感覚を印象付けられながらも、いらっしゃいませ、と挨拶をしてメニュー表を取り出せば、お客は一度驚いた顔をしたものの、広げたメニューに視線を落とした。

「ブレンドのMを。持ち帰りで」
「はい、以上でよろしいでしょうか」
「ええ。これで」
「お預かりします」

差し出されたカードを受け取り清算を済ませてレシートと共に返す。お客が財布にカードを戻す動作を横目で見ながら、厨房へと注文をすればもう一人の店員の返答が聞こえた。

「此方でお待ちください」
「…珍しいですね。此処の店は男性ばかりかと」
「……え?」

閉店後の事務処理の算段を立てていた所為で反応に遅れたが、自分に話しかけられたのだと気づいて驚いてそのお客の方を見ると、その人はそんな私の様子にか密かに笑っていた。目を瞬かせた後急に恥ずかしくなって顔が熱くなりそっぽを向きたかったけれど、相手はお客様である。そんなこと出来る筈がなく、話題を続ける為に照れ隠しにはにかんで事の次第を話す。

「元は昼間なんです。今日は諸事情がありまして臨時で」
「成程。いつもの男性の方の代わりでしたか」
「ええ。いつも御贔屓にして下さり有難う御座います」
「此方こそ。仕事の帰りは此処しか開いてないので」
「この時間ですとそうですね。…嗚呼、お待たせ致しました」

厨房から持ち帰り用の紙製容器が差し出される。香ばしい匂い香る黒は紛う事無き当店自慢の自家焙煎珈琲である。
注文口横に置かれた黒い蓋をつけてお客へと差し出す。

「お勤めご苦労様です」

片手で側面を、片手で底を持ってお渡しすれば、お客は黒い手袋のついた手でそれを受け取る。細められた水彩のような青は私をしっかりと見つめていた。

「…有難う御座います」

そう云うとお客は身を翻し扉へと歩いていく。小さな鐘の音が鳴り響き、扉が開くと入店したお客と入れ替わりでその人は闇夜に紛れ消えていった。
入店したお客の接客をしていれば、思考は仕事に切り替わる。閉店までそれ程時間はない。今度こそ閉店の算段を立てて、閉店の時間が来れば、手際よく処理を終わらせて店の鍵を掛けるともう一人の子と別れ帰路へとつく。夜も深いからと帰りはタクシーを拾った。運転手に住所を告げて暫く揺られていると、あの不思議な客の事を思い出した。少しの間頭から離れていたというのに、何故かふと、突然思い出したのだ。あの水彩の青が鮮明に頭に残っていた。



それから数日。特に何事もなく過ごしていた。いつもの、朝一からの勤務に始まり夕方頃にもう一人の正社員である真島くんと入れ替わる様に退勤する。夜の勤務はあの日以来無く、あの不思議なお客の事も少しずつ、忘れていくような気もした。

ある日の昼間の事だった。
昼食をとる人や食後の珈琲を買いに来る人など昼間の人の波が通り過ぎ一息ついた頃、明るい陽の光に照らされた黒は闇夜に一度見ただけであったが、あの日から頭の中に幾度も過る色だった。丁度アルバイトの子が休憩に入った事もあって接客は私一人しかいない。あの時と同じ様に注文口へと立って挨拶を交わす。

「いらっしゃいませ」
「ブレンドのMを。持ち帰りで」
「以上でよろしいでしょうか」
「嗚呼。幾らに?」
「450円になります」

出されたのは硬貨一枚だ。すぐに精算をして御釣りとレシートを渡すと、その人は特に気にした様子も無く身を引く。直ぐに次のお客になり注文と精算をしながら、少し拍子抜けした。変に意識して緊張してしまって、恥ずかしくなった。相手方からみたら私など珈琲店の店員以外の何物でもないのだと宣告されたようだった。否確かにその通りなのだろうけれど。あの時は唯単に、深夜近い時間に女の私が居た事が珍しかっただけなのだ。ちらりと横目で盗み見ると、あのお客は店内の柱に凭れて端末を操作していた。なんてことはない、その人にとっての日常なのだろう。
次のお客の注文を終えた頃に厨房から持ち帰り容器の珈琲が回ってくる。黒の蓋をあの時と同じように閉めて注文品を読み上げた。

「ブレンド珈琲、お持ち帰りのお客様」
「嗚呼。はい」

端末を背広の衣嚢に仕舞い、そのお客は受け取り口へと歩む。カウンター越しではあるが、あの時と同じ水彩の青が私を見上げた。お待たせ致しました、と容器を手渡しその人の手に珈琲が渡ったと思うと、黒い手袋の手が二つ折りの何かを差し出す。それは先程会計の時に渡した今日のレシートだった。嗚呼捨てておけば良いのだろうか、とそれを手に取ると、その人は指を離す事無く「中原中也だ」と云った。何のことか分からずレシートを見つめていた視線を上げると、その人は私をじっと見つめていた。視線にどきりと胸が跳ねる。

「は、」
「連絡先が書いてある。都合の良い時に連絡を呉れ」
「そ、そんな、あの、」

思わず手を離すが、折られたレシートはもう一度突き出され、お客とレシートを交互に見ていたが、どうすることも出来ずゆっくりと恐る恐るそれを手に取った。黒い手袋の指は離され、その人は一息ついて朗らかに笑った。あの時と同じ、優しい水彩の青が細められ私を見つめる。

「待ってる」

そう云い残して踵を返して店を後にするその背中を見送り、姿が見えなくなった頃にレシートを開いた。走り書きされた「中原中也」という名前と十一桁の数字。流石にこんなことは初めてで、どうしたものかと困り悩む。

「休憩有難う御座いまーす。あれ?涼子さん如何かしました?」
「え、あ、ううん。何でもないよ。御帰りさなさい」
「そうです?あっ、先刻すっごい恰好良い人見たんですよ!ウチの持ち帰り容器持ってたんでお客さんだと思うんですけど。来ませんでした?黒い帽子と背広の、赤茶の髪の人!」
「ど、どうだったかな…」
「涼子さんてば疎いんだから」

休憩に出ていたアルバイトの子が戻ってきて、すぐさま貰ったレシートを隠すようにエプロンに仕舞った。真逆、今の今その人から連絡先を貰った等とはいえる筈もなく、相談しようとした私の思惑は無情にも消えた。それから仕舞われたレシートに気になって、その人の口から出た名前、レシートに書かれた名前を、心の中で何度も呟いた。待ってるとは云われたものの、どう連絡をするべきなのか困って、結局アルバイトの子に相談する羽目になるとは、この時の私は知る由もなかった。