甘く溶ける

※交際中


「涼子さんも彼氏さんにチョコレェト渡しますよね!」
「えっ、嗚呼、うぅん………そうだね」
「その間はなんですか!渡さないんですか!」

鬼気迫る、といった形相で、バイトちゃんは休憩室にある洋卓から身を乗り出す。
季節は年を越し早一ヶ月が過ぎた。製菓会社が世に広めた行事はこの珈琲店でも例外なく採用され、チョコレェトを扱う商品が増えておりもうそんな時期かと、最近増えた学生のお客さんに暖かな気持ちにはなっていた。しかし、それはあくまで学生の間の話ではないだろうか。成人を超えて流石にと思っていたが、どうやら、世間は違うらしい。

「いいですか!恋人同士のバレンタインの方がよっぽど!大切ですよ!日ごろの感謝だとかそんな建前並べて渡すのも良いと思います!が!ここはいっちょ涼子さんから!愛する気持ちを込めてお渡しした方が!件の黒帽子の似合う彼氏さんも喜びます!ぜっっったい!」
「な、なんで知ってるの!?」
「情報網を甘く見んで頂きたく候!」

思わず立ち上がった焦り顔の私と、対してキメ顔を作るバイトちゃんに、恐らく夜勤務の男性方からリークが有ったのだろうと早々に理解した。大きく溜息を吐いて、立ち上がった椅子に座り直す。チョコレェトか……。そんな事云ってもなあ。
交際している中原さんは、あまりそう云う物がお好きではない、甘いものは好んで食べられない方の様な気がする。頼まれるのはブラック珈琲のみであるし、この間一緒に食事をした時も最後のデザートは断っていたから、そう思っていた。ダーク系なら大丈夫だろうか、それともチョコレェト自体駄目かも知れない。ううん、と頭を悩ませていると、ふと、そんな事ばかり考えている自分は、中原さんのことでいっぱいになっていると気付いて、かっと顔が熱くなる。その色は云うまでもなく表に出ていて、バイトちゃんの視線を受けながら、どうにか冷めないかと手を煽り風を起こすが、一向に冷める気配はない。

「涼子さんかわいい〜!」
「もう、放っておいて…」
「お疲れ様です〜。あれ?どうかしました?」

嗚呼どうしようか。仕事が始まるまでには冷めてくれと願っていたが、残念ながら真島くんが休憩に入ったので私が入れ替わりで出なくてはならない。背凭れに掛けていた前掛けエプロンを掴み、休憩室から出て受付へと戻ると、扉の鐘が鳴る。
全くも以って、今日の私は運勢が良いのか、悪いのか。振り向いた先に見えたのは黒い帽子とその下に見える明るい赤茶で、切り替えた筈の頭がまともに動かなくなる。

「よお」
「えっ、ぁ、いらっしゃいませ…」
「どうした?」
「な、んでもないです」
「だったらこっち向けよ」

視線を斜めに左へと逸らして、顔を見ない様にしていたのだけれど、そんな事を中原さんが許してくれる筈はなく、メニュー表の上に乗った指がトントンと二回叩かれる。
伺うように視線を中原さんへと移せば、当人は何も知らないものだから不思議そうな顔をしていた。バイトちゃんの言葉が過ぎる。喜んでくれるのなら嬉しいけれど、それを本人に問うのもどうかと思いどうすることもできず口を結んでしまう。中原さんは特に言及してくることなく、いつもと同じ、ブレンドを頼む。私も、いつもと同じように注文を入れて、それが出てくるのを待っていた。
程無くして、湯気の立つ珈琲が奥の厨房から受け渡され、持ち帰り用の容器に蓋をして、受け取り口へと移動すれば、その人は端末を弄りながら待っていた。

「お待たせしました」
「ん、有難うな」

声を掛ければ、なんて事なく礼を述べられ渡す容器を手に取る。いつもの光景だ。しかし、私はその容器から手を離せないでいた。それは、この場で聞くべきか迷ったからだ。
好みの問題なのだから本人に聞くべきだと思うが、だからといってあからさまに渡す気があります、と云うのは如何なのだろう。恋人なら普通、といった口振りのバイトちゃんの声が頭に再生されるが、態々渡す時間を作って頂くのも気が引ける。延々と悩む私を目の前の人が呼ぶ。いつもなら低い声色に乗る自分の名前に、はやる胸のうちを押さえる事にいっぱいになるのだが、今はそれどころではなかった。

「涼子?」
「ぁ、す、すみません。どうぞ」
「…悩み事なら聞くぞ?」
「いえ、そんな」

貴方の事です、とは流石に云えず、私情の事ですからとはぐらかして容器から手を離した。中原さんは無理には聞いてこないが、やや、引っかかるようなものはある様子で、複雑そうな顔をしたものの、はたと何か思い出しころりと笑みに表情を変える。

「来週の水曜、時間空いてるか?」
「はい、特に用事は有りません」
「その日に休み貰えたんだ。出掛けねェか」
「はい!勿論です」

中原さんと休みが被る日は少ない。私は土日の休みはほぼ無く平日休みが多いし、中原さんは勤め人だが出張なんかの都合で休みは固定ではなくばらばらなのだと云う。それ故に、偶に被る休日はお出掛けに誘って下さる。お疲れなのでは、と遠慮した事もあったが、「折角の休みを恋人と過ごせねェのは寂しいなァ」と云われて仕舞えば、返す言葉は限られてしまう。それに、私もそんな事を云っておきながら中原さんと一緒に居られるのは楽しいし、何より嬉しい。
また詳しい事は連絡すると云い残して、中原さんは店を後にする。その背中を見送ってほっと息を吐いた。来週の水曜日。前回は一月ほど前だったから、久し振りのデェトだ。この前伽羅色のセーターを買ったばかりだから着て行こうかな、なんて、服装の事を考えていたが、その次の日は丁度バレンタインデーで、何気に時間を貰っている事に気づいて、その日が訪れるまで消えない悩みが生まれたのだった。





そして当日、適当な場所で待ち合わせをして落ち合い始まったデェトは、久し振りということもあって楽しかった。中原さんがよく行くというワインの専門店にお邪魔したり、偶々見つけた革小物の雑貨店に入ったり、なかなか会えない事もあって色んなお話が出来たのも楽しく思える要因だと思う。
中原さんなりの配慮なのか、或いはそういった性分なのか、デェトは日の落ちる頃には帰らされる。特別何かの記念日であれば夕食を一緒にする事もあるが、普段のデェトでは陽が傾く頃に家の近くへと送られる事が多い。今日も例に漏れず日の落ちた頃には私の住むアパートの下に車を横付けされる。助手席を開けられて、外に出るとまだまだ冷たい風が吹いていた。

「付き合ってくれて、有難うな」
「いえ、此方こそ楽しかったです。久し振りに、その、一緒に居られたので…」
「…おう」

自分で云うのも恥ずかしいが、それでも、言葉にしなくてはいけないのだと友人であったり勤務先のバイトちゃんにもよく云われるので、中原さんと交際を始めてから私なりに気をつけている。
照れ臭くなりながらも、今日はこれで終わってはいけないのだと、意を決して、中原さんを伺う。

「あの、少しだけお時間頂けますか?」
「嗚呼、構わねェが…」

私が今まで、そう云った事が無かったからだろう。小首を傾げる中原さんに背を向けてアパートの、自分の部屋へと急ぐ。扉を開ければ、目的のものはすぐ近くに置いてあり、それを手に持ってアパートの下へと戻れば、その人は何処やらへ電話をかけていた。

「嗚呼、それは其方で処理しとけ。あーあと、立原の奴に繋いで……おう、そうしてくれ。頼む。…悪ィな、待たせた」
「いえ、私の方こそ寒い中ごめんなさい」
「気にすんな。……それ」
「えと、あの、市販品ですので、味は美味しいとは思います。甘いものが苦手であれば、職場の方に上げて頂いて構わないので…」

小さな手提げの紙袋の中には、四つ入りのトリュフチョコが入っている。一応甘過ぎないビターを選んだが、苦手であることも考えて数の少ないものにした。そして、もう一つ。昼間に見た雑貨屋で見た牛革の名刺入れである。ほぼ黒に近い焦げ茶色のシンプルな方マチタイプのそれは、黒いものを身につける中原さんによく似合う気がして、ほぼ一目惚れで買ったものだ。

「あとこれは、その、宜しければお使い下さい」
「昼間にあの雑貨屋で見てた奴か」
「名刺入れなんですが…、その色が、中原さんに似合うと思って。あ!その、普段使われているのがあれば、」
「いや、有難う。大切にさせて貰う」

ラッピングされた箱から取り出して手に馴染ませるその様子が、いっとう絵になると思った。やっぱり似合うなと、自分の感覚が間違いではなかったと少し嬉しくなり、そして、中原さんの満足そうな顔に安堵する。
箱の中に名刺入れを戻して、丁寧に、袋の中へ戻すと、中原さんがぼそりと何か呟いた。それは私の耳には聞き取れなくて聞き返すが、中原さんは笑みを浮かべた儘自らの顎に指を置く。

「え?」
「いや?来月楽しみにしとけ。あとチョコレェトは俺の口に入るから気にすんなよ」
「ぇ、あ、そんな、お返しは考えていないので」
「俺がしてやりてェんだよ」

伸ばされた手は私の髪を撫で、そして手の甲で頬をなぞる。触れられた事に少し驚きながらも、伝わる暖かさにもっとと欲張りそうになって、自制をかける、その前に触れていた手が離れていく。思わず目で追うが、名前を呼ばれてはっと我に返った。

「涼子」
「っ、はい」
「また、今度な」
「はい、また今度」

車に乗り込み、程なくエンジンが掛かる。ゆっくりと走り出した車の、遠ざかっていくテールランプを見送って、完全に見えなくなった所で部屋に戻る。寝台の上に腰を下ろして、触れられた頬をなぞると、何処か、あの暖かい温度が蘇る。
どうしよう、私、中原さんの事でいっぱいになってる。
思い出すだけでも恥ずかしい癖に、でも、渡せれた事に安堵して、幸せな気持ちになって、胸が締め付けられるのだ。すごい悩んで迷ったけど、渡してよかったと思う。
熱を持つ頬を両手で包んで、ぱたりと寝台に倒れこんだ。
来月、楽しみにしとけって云って見えたけど、どうしよう、こんなの、持たないかもしれないなあ。その日まではほぼ一ヶ月ある。この一月はきっと、私が今まで過ごした中で一番長く感じるだろうと、予想するまでもなく、未だ冷めない熱に浮かされながら彼の人の事を想うのであった。