深窓の佳人

※ 一月、二月拍手御礼

中原幹部は五大幹部の中でも最初に名前が出る幹部だ。
組織一の体術使いの武闘派で、首領からの信頼も厚く、仕事に真面目。天性の才もあるが、努力を惜しまないその姿勢と好戦的な性格に惹かれる人も多いとか。
そんな中原幹部を異性が放っておく事は無い。が、それもつい最近までの話。半年程前にご結婚なされてからはそういった話はすべて消えた。その代わり、奥方の話で組織内は持ちきりで、幹部は「愛妻家」として組織に知れ渡る様になった。結婚される前までは、よく執務室に併設されている仮眠室で過ごされる事が多かったが、以降きちんとご自宅に帰られるようになり、お休みもきちんと取られている。そして降誕祭に表向きの業務である企画部が催した、港のイルミネーションにご夫婦で見えていたらしく、奥方が喜ばれていたと企画した構成員に直接お話をされる程である。
あの、仕事一筋の中原幹部を落とした御仁である。組織に興味の湧かない人間など居る訳がなく、特に幹部を異性として狙っていた構成員たちは何としてもその女性のことを知ろうと探るが、未だ誰も尻尾どころか影も形もないらしい。
幹部直接の話では、器量の良い、落ち着いた方で、料理がとてもお上手のようである。先日噂となった「愛妻弁当事変」の時は組織内が騒然となった。愛妻弁当とは、架空の物では無かったらしい。こう云う自分も妻子がいる身だが、そんなものは今まで用意された事は無いので、幹部が意気揚々と鞄から取り出した弁当箱を見て戦慄した。そしてその後訪れた黒蜥蜴の立原氏の呟きに、一様に大きく頷いたのは云うまでも無い。

中原幹部の直属部下とはいえ、一構成員でしかない自分は、組織の中原幹部事情に波紋を呼ぶ事態に遭遇した。
噂の奥方に、お会いしたのである。



「挨拶回りに出る。車出せ」
「は、用意します」

事の次第は、中原幹部の保護ビジネスの企業への挨拶回りに運転手として指名された事であった。中原幹部は護衛等あまり付けられない。武闘派として自分の身はご自身で守れる事もあるが、大人数での移動はあまり好まれない。最低限として補佐と運転手役の二人が付く程度だ。
本日の挨拶回りに選ばれた自分は、専用車の鍵を貰い受けロータリーに車を横付けする。程無くして、幹部と補佐の人間がビルの自動扉から現れ、後部座席の扉を開けると、二人は車内へと乗り込んだ。自分も素早く運転席へ乗り込み、エンジンを掛けて滑る様に車を発進させた。


「まずは西方繋がりの企業です。此方になります」
「嗚呼、契約の内容どうなってる」
「此方の資料ですね」

補佐の人間と打ち合わせる幹部の声を聞きながら、細心の注意を払って運転していた。途中、よく寄る珈琲店の前を通り首都高に乗ると最初の企業のある場所へと速度を上げた。
企業へ着けば、補佐と共に幹部の背後へと控える。保護ビジネスの契約の話や世間話も交え情報を仕入れながら数件の企業を回り、最後の企業が終わる頃は既に日が傾いていた。いくら効率良く回っているとしても、横濱中を移動しているのでそれなりの時間は掛かるのだ。
帰りの車内で、幹部は端末を弄りながらこれからの予定を確認していた。ふとルームミラーで後方を確認すると、幹部の視線が端末から窓の外へと移っている。信号で止まると、目線の先には行きも通った珈琲店であった。
そう云えば、幹部はよく此処の持ち帰り用の器を持っていた事を思い出した。贔屓にしている店なのかも知れない。

「寄せますか」
「……嗚呼、頼む」

店より少し離れた路肩に停め、ハザードを点灯させると幹部が懐から財布を取り出し、隣の補佐に聞く。

「手前何にする」
「有難うございます。ではブラックのMを」
「ブラックM二つと、手前も好きなモン買ってこい」
「有難うございます。ご馳走になります」

止帯を外し、幹部から渡された大きい桁の札を両手で貰い受けて車を後にした。

店の扉を開けると、扉に付いた小ぶりの鐘が音を立てた。店内のゆったりとしたクラッシックをBGMに店員の挨拶の言葉が疎らに聞こえた。注文口へと歩みを進めると、女性の店員が付く。昼間に訪れるとよく居る店員だ。顔を覚えていたのは、なんとなく雰囲気が印象に残る店員だからだ。かく云う自分もどうやら先方の記憶にあるらしく、その店員は目元を緩ませて微笑んだ。

「いらっしゃいませ。ご贔屓頂きありがとうございます」
「いえ、…ブレンドのMを二つと、カフェラテを一つ」
「はい。ブレンドM二つとカフェラテ一つですね。以上でよろしいでしょうか」
「ええ、お願いします」
「お会計が、」

幹部から頂いた札を取り出すと、店員は会計を済ませてお釣りと、レシートを渡す。それを受け取ると、店員は紙袋を取り出し自分に見せる。

「お手提げ袋、ご用意しましょうか」
「お願いします」
「ふふ、分かりました。ブレンドのお砂糖とミルクは如何されます?」
「…お願いします」

そう云えば、聞いてくるのを忘れてしまった。カフェラテしか飲まないので、砂糖やミルクのことを忘れていたのだ。恥ずかしい話だが、自分はブラックの珈琲というのが飲めない人間だ。飲むとすればカフェラテくらいのもので、仕事場にある給湯室と云えばインスタントと砂糖しか常備していないのである。故に、自分がこの珈琲店をよく利用しているのだ。
お客が少ない事もあってか、頼んだものは直ぐに用意され、先程の店員が自分と目が合うと微笑んだ。

「お待たせ致しました。ブレンドM二つとカフェラテ一つのお客様」
「有難うございます」
「此方の手提げに入っているのがブレンドM二つです。…カフェラテの方もお入れしましょうか?」
「いえ、そのままで」
「分かりました。手提げの中に砂糖とミルク、マドラーが入っておりますのでお使いください」
「分かりました。有難うございます」
「いえ。…あ、扉お開けしますね」

手提げの珈琲と自分のカフェラテを持つと、その店員は注文口のカウンターから出て扉の方へと向かい、扉の取っ手に手をかけた。
嗚呼そうだ。この店員はさり気なく気配りをして進んでこなすのだ。誰にでも隔てないその姿勢が印象付けられていたのだとここで気付いた。

扉が開けられると、吹いた風によって店員の髪が靡いた。店の外に出た店員に続くように外に出れば、店員は横へと下り道を開ける。

「風が強くなるようですから、お気をつけて」
「そうなんですね、有難うございます」
「お勤めお疲れ様です。またのお越しをお待ちしております」

細められた目に会釈を返して、車へと戻る。
運転席へと乗り込むと、自分のカフェラテを収納場所へ、ブレンドを取り出し砂糖とミルク、マドラーを幹部へ渡そうとすると、幹部は窓の外を眺めていた。視線の先には、先程の店員が表に置いてあった簡易看板を店内に運んでいるところだった。

「中原幹部?」
「…嗚呼、悪い。有難うな」

自分の声に少し間を置いてから、幹部はそれらを受け取る。補佐にも一式を渡すと、自分は止帯を留めて車を発進させた。香ばしい珈琲の匂いが車内に広がる。暫く進み交差点で止まると、幹部が自分に声を掛けた。

「あの店員、良い女だったろ」
「え?あ、そう、ですね。とても綺麗な方だと思います」
「ほー、そうか」
「あの店よく利用しますが、いつも良くしてくださいます」
「なんだ、手前よく使うのか彼処」
「……お知り合いで?」

機嫌よく話される幹部に隣の補佐がそう問うと、幹部は珈琲を啜った後、私用の端末を取り出し弄りながら、「嗚呼、まあな」と区切り、続きを口にする。

「妻だ」
「………え」

一瞬頭が真っ白になったが、信号で急ブレーキを踏まなかった事をどうか褒めて欲しい。自分と、そして幹部の隣に居る補佐には雷が落ち電撃が走った。
妻。つまりあの店員が噂の奥方という事か。いやまさか、どこからどう見ても黒社会の人間には見えず、陽の下に生きる真っ当な人間にしか見えない。騒ぐ心と冷や汗と衝撃を胸に抱き、震える指先でビルへの道を運転する。

「彼奴は真面な表の人間だ。……意味が分かるな」

ルームミラー越しに刺さる鋭い双眼に、自分と補佐は唾を飲み込み無言で頷くしか無かった。つまり、他言無用という事だ。ビルへ着くと、幹部の乗る後部座席の扉を開いた。未だ頭の整理がつかない困惑した表情の補佐と通常通りの幹部が降り、ビルの中へと消えていく。その後ろ姿を見送って、自分は車を止めにまた車内へ乗り込んだ。地下駐車場の規定の場所に車を止めてエンジンを切ると、肩の力が一気に抜けた。真逆、あんな所で知るとは思わなかった。
誰も何も掴めない、影も形もない幹部の奥方が、表の人間でかつ、あの珈琲店に勤めているとは、誰も気づかないだろう。奥方の情報が何も出ないのはきっと、幹部が根回しをしているからで、誰にも掴めないのも頷ける。カフェラテに口をつければ、ほんのり甘い中に苦味の効いた珈琲の味が口に広がった。牛乳の泡しか器からは見れないが、中はちゃんと珈琲が含まれているのが口にして漸く分かる。成程、事実は小説よりもなんとやらとはまさにこういう事だ。
店員の顔を、幹部の奥方様の顔を思い浮かべて、自分はこの件については一生黙秘し続け墓場まで持って行こうと胸に誓った。