1.31

お帰りになられた時から、何処か今日は機嫌が良いと思っていた。
お仕事が上手くいったのだろうか、別に良い事でもあったのか、理由は分からないものの中也さんが嬉しそうなら私も自分の事の様に嬉しいので特に気にはしていなかったが、ワインを飲むのかと思いきやそうでもなく、夕食後に食器を片付けようとすれば手前は座ってろと珈琲を出されてしまい、食器類は綺麗に中也さんに片付けられてしまうし、先に風呂に入れさせられるわ、風呂から出れば髪のケアも、乾かすのも、全て中也さんの手で行われた。正に至れり尽くせり。一体なんだと云うのか。

寝室でどれだけ頭をひねっても理由が思い浮かばず唸っていれば、中也さんはお風呂から出られて(勿論、常日頃私がやっていた掃除も済んでいた)その手には見たことのない、掌サイズの白い箱が二つある。

「涼子、こっち来い」
「なんでしょう?」

手招かれる儘に、中也さんの座る寝台の上へと登れば手を出せと云われる。その通りに手を出せば、中也さんは先程の白い箱からこれまた白いチューブと透明な液体の入った小さなボトルを取り出した。それが何なのか、分からない訳も無いが何故そんな物をと問う前にボトルの化粧水を掌に出した後ゆっくりと、馴染ませる様に、手の甲から掌に、指の間から指先へと丁寧に広げられる。ふんわりと、何かの花の香りがした。

「わ、何の香りですか?」
「カミツレだ。手前好きだろ」
「よくご存知で…」

云った事があっただろうか、と頭の中で過ぎったが、この人にその言葉は無駄だと知っている。大凡、私よりも私の事を知っているのだ。
私よりも一回り大きな、筋張った手が私の手を包む。中也さんの手から伝わる体温で冷えた指先はほんのりと暖かくなり、その熱を追う様に無意識に指先に力が入った。頭上から、喉奥で微かに笑う声がした。

「ぁ、」
「一寸、良い子で待ってろよ」
「ぁ、はい…」

かあ、と頬が熱くなる。中也さんは完全に子供扱いをしていたが、私は今それを指摘する所ではなく、恥ずかしくって熱が篭る頬を冷ます方が先だった。頬に手を置いて一生懸命冷まそうとしているのに、そんな事など知らぬ存ぜぬと中也さんはまた手を出せと云ってくる。

「ま、待ってくださ」
「待たねェよ」

手の甲に手が重なり、やんわりと頬から外される。流石に中也さんの顔が見れず視線はずっと手元ばかりになってしまうが、幸い、中也さんも私や自分の手元に視線を向けている様であった。
中也さんの手に包まれ、先程と同じ様に手の甲に、掌に、指の間に、指先にと、チューブのクリームを馴染ませて広げられていく。
指一本一本も丁寧に塗り込まれていく様を眺めていれば、漸く思考も落ち着いてきて、熱で暖められた指先からぽかぽかと身体も暖かくなっている気がした。気づけば、私の手は中也さんの手と指の間で組む様に繋がれていて、やんわりと引かれ中也さんの方へと凭れれば正面から抱き締められていた。ゆっくりと、髪を梳く様に撫でられながら、中也さんは私を呼ぶ。

「涼子、」
「中也さん?」
「いつも有り難うな。俺の為に美味い飯作って、風呂の用意もして、掃除や洗濯して、俺の事待っててくれて」
「ぅ、あ、あの、」
「あーあと、夜の方も、」
「あのっ!」

不穏な単語が続きそうで遮る様に強めに云い出せば、また喉奥で意地悪く笑うものだから、既に先刻よりも熱を持つ顔が余計に赤くなくなるのが分かった。
一体、本当に、何だと云うのか。混乱に混乱だ。自分でも分かるくらいに今私は情けない顔をしているだろう。

「えと、あの、一体どう云う、今日って何かある日でしたか…?」
「愛妻の日」
「あい…?」
「『妻というもっとも身近な存在を大切にする人が増えると世界はもう少し豊かで平和になるかもしれない』っつー理想の元に制定された記念日なんだとよ」
「は、はぁ」
「だから、涼子をどろっどろに甘やかす事にした」
「な、なるほど…?」
「だから、な?まだ今日も時間がある事だから、目一杯俺に甘やかされてろ。まあ、今日に限った事ではねェけどな」

何となくとしか飲み込む事が出来なかったが、つまり、中也さんは私を甘やかしたいらしい。といっても、毎日いつでも何処でも甘やかされていると思うのだが。
そんな私の思考なんて御構いなしに、髪に、額に、耳に、唇を寄せながら些細な事まで挙げられて、感謝の言葉だ感想だを囁かれるものだから、居ても立っても居られず逃げ出したいのだが、生憎私がこの人の腕から逃れる方法など知る由も無く、最後は文字通りどろどろになるまで甘やかされて、美味しく頂かれた後も身の回りの全ての事を尽くされてしまうのだった。







「結局、こう云うモンは口実なんだよ。俺はいつだって涼子を甘やかしてェしな」
「い、いつもこんな事されたら、私持たないですよ…!駄目になっちゃう…!」
「そりゃいいな。駄目になっちまえ」

後、手前は俺に毎日同じ事をしてるからな。
お陰で此方はもう手遅れだ。